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小説

『運動会の準備』
   

   学校の椅子は、当時小学三年生で、おまけに非力な私には信じられないほど重く、これを持って移動するのは大変な労力がいったが、おまけに、学校中の三年生たちが同じく重い椅子を持って、互いにぶつからないように注意深く移動するのだから、歩みは牛のそれよりも遅く、全く前へ進まないうえに、先生たちが「早くして!」と大声で怒鳴ったり、私たちの背中をドンドン! と叩いてせかすのだから、私は憂鬱のあまりそのまま卒倒して死ぬかと思うほどだった。
   玄関は狭く、おまけに靴を履かねばならないので、生徒らの渋滞はいよいよ深刻になって、完全に止まってしまった。
   「早くしなさいよったらー!」
   担任の女の年輩の先生は私の背中を拳でどやした。太鼓のように何度も何度も。振り返って、「でも先生、止まってるから…」と言って、叩くのをやめさせたかったけれど、振り返る動きすら許されないほど私たちはぎゅうぎゅうに身を寄せ合っていたから無理だった。それに振り返って先生に何か言ってみたところで、いったいそれが何になると言うのだろう。先生たちに正論は通用しなかった。先生たちは頑張ればなんでもできる、空だって飛べるという精神論を信奉していたから。だから振り返って何か言ってみたところで先生は「つべこべ言わない!」とか、もしくは「目上の人間に口ごたえするのか!」などと叫びながら、私の頬を容赦なく叩いていたことだろう。
   私はあきらめた。先生たちにいまの自分の絶望をーー学校が嫌いだ。学校に行きたくない。長いこと頑張ってみたけれどもう学校という居場所には一分一秒も耐えられない。この訳の分からない規則と厳しい体罰や暴言と、そして後から後からと津波のように押し寄せてくるいったい何のためにやるのかよくわからない沢山の行事の苦痛と、そのほか学校に所属しているというだけで自動的に強制されるありとあらゆる煩瑣な物事から受ける数々の疲れと絶望をーー私から取りのぞいてほしい、救ってほしいという期待の一切を私は先生たちからあきらめた。全身から力が抜けそうになるのをしかし椅子を落とすとまた先生から不条理にどやされるので懸命に踏ん張って堪えて、そうして身体中にそういう不自然な心理作用による力が漲るのを自分でも不快に感じながら、だがその不快が先生の敏い眼に捕まってただでさえ苛立っている先生の神経なり生理感覚なりをさざ波立たせることでまたもや先生から背中への不条理な暴力を受けぬようにと素早く心と身体の平均を静かに整えて自己の身体の皮下に走って今まさに表面に表れ出そうになっていた微妙な不自然な力を何とか打ち消すことに成功したのだった。しかし私はほっとしながらも思うのであった。(いまおれがやったことは意味があったのか…)と。この心配ははたして(普段兄貴から根暗根暗って馬鹿にされてるおれの性格から出たマボロシなんじゃないか…)、そしてその心配もその心配からとっさに取った必死の努力もまったく取り越し苦労であって、それは結局自分自身の根暗を自分自身によって証明しただけであり、きわめて恥ずかしく、それでいて先生の暴力をとっさに予防するというところにどこか己の卑怯さ、小心さ、子供らしくない屈託や疲れや焦りや陰影が感じられて、自分ながらにうんざりしてしまうと共に、また、ひどくぐったりとしてしまうのだった。
   …ようやく上履きを脱ぎ終わりーー渋滞に巻き込まれて微動だにできずに居るために、所在なげに私の行為の一挙手一投足を、渋滞に巻き込まれたストレスでいつもよりもさらに強(こわ)い顔で凝視しているーー先生の前で靴を履きながら、他の生徒らの流動によって流されて行こうとする私の椅子を必死に片手で固定しながらーー先生に「とろい!」と殴られぬようにーー同時にもう片手で素早く靴を履き終わると、生徒らの流動にうまくタイミングを見計らって入り込む、そして私はようやく幼い生徒らのミルクのような臭いのする熱い不快な人いきれから開放されて開け放たれたドアをくぐろうとするが、その狭いドアの最後の渋滞に私は引っかかってしまい(先生に殴られる)と身を引き締めた瞬間、恐らく私と同様に先生たちの圧や暴力の気配に恐れ焦る誰かが放ったドンッ! という衝撃が遥か後方から人垣から人垣へと伝わって来、皆の悲鳴とその思いがけぬ衝撃と共に私は前へと一息に飛び出して、幸運にも先生の暴力からすんでのところで逃れてーー(だけどその先生の暴力の予感もおれの根暗な性格が見せた勘違いだったかもしれない…)というふうに若干落ち込み、自分の神経質に自己嫌悪しながら…ーー外のフワッとした涼しい曇空の下に躍り出たのだった。
   「ンンッ!」
   背後でくぐもった怒った声が聴こえ後頭部に衝撃を喰らった。一瞬眼の前が部分的に暗くなり部分的に火花が散ったので、驚きつつ振り返って確認してみるとそれは先生の拳によるものだとわかり私は愕然としたのだった。恐らく先生は苛々していたがそれをずっと抑えており、やっと外に出れたという解放感と共にその苛々を発散しようとしたのだが、偶然その場にあったのが私の後頭部だった、ということだったようだ。不条理だ、不条理だ、と私はその頃覚えたての不条理という言葉を心の中で唱えながら、屈辱感を抱えつつ私のクラスのテントのある所へ私の信じられないほど重い椅子を必死に両手で抱えながら進んで行くのだった。
   椅子を置き終わりやっと帰れると思って、皆が校舎へ入って行こうとした瞬間、あの地獄の何度も練習して聞き飽きたダンス用の音楽が流れて来て私たちは驚いて振り返り、グラウンドの中央で準備体操をしている私の先生を目視して、大きなため息と短い悲鳴を上げながら「またやるのか」とか「ダンスの練習はもう終わりじゃなかったのか?」というーーその口吻の裏には隠しようもない深い疲労の色が明らかに認められたーー轟々たる非難の声の数々を打ち消すように先生は、
   「おまえら何で勝手に帰ろうとするかー! 本番は明日だぞー! 最後の最後に練習するに決まってるだろー!」
   と怒鳴って、一人だけ異常に張り切りながら、「歌が始まる前に集合! 走れ走れ! 遅れた奴はあとでグラウンド十周!」と叫んで皆の士気を鼓舞するのだった。
   疲弊し切った私たちは暗いやつれた顔をしながらも必死で走った。私たちは走って走って走ったので、この調子では何とか全員間に合いそうだという感じだったので皆は安心したのだったが、先生はそれでは面白くないと何となく感じたのか「はーい! 一番遅い奴! 一番遅い奴は一番やる気ない奴とみなす、だから一番遅い奴はグラウンド十周!」と言い放ったので、皆(冗談じゃない!)という凄い顔をしながら速力を上げ、私を含む足の遅い生徒らが幾人か後方に取り残されて、焦った瞬間私は脚がもつれて、情けなくそして勢いよく顔面から地面へ衝突したのであった。痛かった。前歯が欠けたようだった。少し血が出ていた。這いつくばった姿勢で顔を上げると、血を出して倒れている私の顔を皆は気の毒がるのではなく心の底から安堵した顔をして私のびりっけつを喜んで見ているふうであった。
   「はい! おまえはあとで十周! はい、早く起き上がって来なさい! それくらいの血は何でもない! 男の勲章だ!」
   クラクラする頭は私の歩行感覚を狂わせてなかなか前へ進むことを許さなかった。グラウンドの中央にまるで教祖のように腰に両手を当てて威張って佇立する先生と、その周囲を取り巻きながら踊る狂信者たちのような生徒たちの光景が、クラクラと揺れて、まるで私をあざ笑うようにわざとクラクラクラクラと揺れて、私が私の持ち場に付く事を意地悪く妨害しているかのように感じられるのだった。しかし、遅れる事は許されない。先生の命令は絶対だ。先生の機嫌に逆らわない事は絶対だ。私たち小さな奴隷は感情も尊厳も何もかもを押し隠してーー時にはそれらを自ら踏みにじってーー先生の要求する何もかもに大人しく従わなければならないのだった。何故か。それには理由はなかった。何故なら先生は「目上」だから。私たちは「目下」だから。そして私たちと先生は「目上」と「目下」の関係が決定的に重要な意味を帯び得る「学校」という不条理な機構の中に組み込まれているのだったから。理由を問うてはいけない。理由を問えばやるせなくなって不満が爆発してしまうから。理由という物を排除して不満という人間らしい自然な感情を押し殺し、何も問わず、何も考えず、ただただ奴隷か機械のように「目上」に従う事だけを自分に言い聞かせればいいのだ。
   「…早く早く…」
   先生の声が遠くに聴こえる。脚がもつれないように走るが緊張と焦りでまた転んでしまった。馬鹿だな。何をやっているんだ。後で大変な事になるぞこのマヌケ野郎め、とんだ馬鹿野郎だなほんとに貴様は、とじくじくした胸の痛みと羞恥と恐怖からもう一度這いつくばった姿勢から顔を上げて先生を見ようとしたがもう何も見えなかった…眼に痛みが走って、視界が暗くなって……クラクラクラクラ、クラクラと頭が揺れて…………聴覚だけでなく視覚すらも薄ぼんやりと霞んで………………
   「……この子脳震盪じゃない?……
   ………血が出てる………………
   …………早く早く、早く来い!…………
   ……………でも先生眼に血……………………………………………………………………………………………………………………この馬鹿野郎! ……おまえ…保健室へ……………だけ……休んだらまた………………………………練習と十周だ!   …………………………………………………………………………   …………………………………………………………………………   …………………………………………………………………………   …………………………………………………………………………   …………………………………………………………………………   …………………………………………………………………………   …………………………………………………………………………   …………………………………………………………………………   …………………………………………………………………………   ……………………………………………………………………………………………………………   …………………………………………………………………………   ……………………………………………………………………………………………   …………………………………………………………………………   …………………………………………………………混濁した意識から何時の間にか快復すると私は保健室のベッドの上にいて、私は目覚めた瞬間に、永遠に学校に捕らわれた捕虜といったような不安におののく小心な心理で、こわごわとこう考えたのだった。
   (運動会はあと何回あるだろう? …小学三年、四年、五年、六年、中学一年、二年、三年、高校一年、二年、三年、……十回………中学や高校では運動会の替わりに文化祭の年があるらしいから、数回はマイナスするとしてもあと七回は確実にある。七回……七回………七回……………)
   それからまた運動会以外の行事や何万時間という授業や何十回何百回という数の体罰や暴言やら規則や慣習の強制やらが膨大に私の人生の途上に控えており私を疲弊させようと意地悪く待ち構えているという事に私は思い当たり気が遠くなるのだった。
   私は悲しかった。しかし涙は出なかった。泣けるほどの豊かな感情は学校という厳しく不毛な集団生活の中で大きく摩耗していたから。ただ鉛のような絶望感が私を捉えて全身を重く冷たく悲しく凝固させるのみだった。
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