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『こころ』両親と私 雑感

『こころ』の田舎者らは何かと口実を付けてどんちゃん騒ぎをやりたがる。
『坊ちゃん』の赤シャツらも、うらなり君の送別会と称して、どんちゃん騒ぎをやった。
『こころ』と『坊ちゃん』の田舎には、他人を馬鹿にする冷たい心や、放蕩や、無定見や、無思想がはびこっている。
このような病気は『それから』のブルジョワ世界にもはびこっていた。誠太郎という代助の甥っ子は意味もなく氷水を食べたがったり相撲を見たがったりしていた。縫子という姪っ子も意味もなくバイオリンを弾いているようだった。ブルジョワ世界では無定見や無思想が当たり前で、小さい頃から無定見・無思想に慣らされて育ち、代助の兄のように無個性なのっぺらぼうのような面白くない人間として洗練されて行く。
田舎でも都会でもブルジョワでも下層でもこういう精神が日本には広範に見られる。


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漱石の描く田舎者は薄情で、頭が悪く(論理力がなく)、いい加減で、適当で、面倒臭がりで、すぐ怒り、すぐ説教し、すぐ情にほだそうとする。それで父と母はしょっちゅう私を困らせる。私は父・母からの不快を蓄積する事で田舎から分離して行く。『両親と私』はざっくり言うと、私が父・母から嫌がらせを受けて、田舎からの分離を促進する章である。先生のような高度の思想に到達するには人情から脱却しないと行けない。私はこの章の最後で危篤の父を捨てて、もう死んでいるかもしれない先生を選んだ。人情からの飛躍的な脱却を果たした。
ネットには「私が先生を選んだのは、私が若いから、先生にのぼせていて、それで青年特有の勇み足で東京行きの列車に飛び乗ったのだ」とか「父はもう助からないから、それよりはまだ望みがあるかもしれない先生を選んだのだ」などという考察があった。全部間違いである。私が先生を選んだのは新しい高度の思想を創造する為である。私と先生は常に思想の道に則って行動している。


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『こころ』の私は父と母を説教して正して上げようとはしない。これはどういう事か。最大の原因は、田舎と都会の分離が甚だしいからだろう。明治の急速な経済発展によって田舎と都会は別世界のようになっている。別の惑星同士である。価値観もまるで違う。価値観が多少似通っていれば「正して上げよう」という意志が生まれて、実践し、正して引き上げる事もあるいは可能かもしれないが、ここまで違うと正す事は不可能である。「正して上げよう」という意志すら生まれないほどに価値観が違い過ぎている。『こころ』における私の課題は田舎を見捨てる事である。何としても田舎は下らない。

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テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

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