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『こころ』両親と私(三)~(四)

両親と私(三)


明治天皇の病気の報知が入り卒業祝いは中止になる。

《父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸になった陛下を憶い出したりした。》

父に未来はない。田舎という不毛の地で不毛の精神のままに朽ち果てる運命しかない。対象的に私には未来がある。未来があるから明治天皇の病気の報知を聴いてもぼんやりと行幸した天皇の事を思い出すだけである。



両親と私(四)


《なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁を一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持よく勉強ができた。》

田舎とは違って東京には活力がある。何がしかの能力や野心を持った人々がせわしなく行き交っている。青年である私はそんな東京の活力を感じ取って発奮する事ができた。しかし田舎には何もない。停滞して活力も張り合いもない。ただ、どんちゃん騒ぎが好きな怠け者どもが居て、後は蝉が鳴いているだけである(メディアなどはよく田舎を礼賛するし、また田舎に魅了されて移住する人もいるが、田舎に魅了される人間は端的に言って都会で働く活力や能力のない無能である)。

私は読書をする気にはなれなかった。昼寝するしかなかった。私は悲しい気持ちを感じて、張り合いを得ようと、友人らに手紙を書いた。先生にも書いた。先生の手紙を封じる時、私はこう思う。

《先生ははたしてまだ東京にいるだろうかと疑った。先生が奥さんといっしょに宅を空ける場合には、五十恰好の切下の女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違えていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一向音信の取り遣りをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁のない奥さんの方の親戚であった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あの切下のお婆さんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考えた。……》

田舎に居ると、他にやることがないから、手紙を書くという全く下らない退屈しのぎを思い付く。そしてその下らない退屈しのぎに引きずられて、上記のように《五十恰好の切下の女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。》《私はその人を先生の親類と思い違えていた。》《その留守番の女の人は、先生とは縁のない奥さんの方の親戚であった。》《先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。》《もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あの切下のお婆さんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうか》などと、恐ろしくどうでもいい事を次から次へと考えてしまう。田舎に居るとこういうふうにどうでもいい事ばかり考えてしまう。そして精神がスポイルされてしまって、優れた精神を作る事も優れた思想を作る事もできなくなってしまう。思想よりも経験的な事物のほうが大切な物として認識されるようになって能力が潰される。これが田舎の恐ろしさである。



私の父は、明治天皇の病気の報知が入るや否や、急に弱気になって、始めて本気で自分の死を考え始めている。思想の育たない田舎に住む父には確固たる思想や定見が持てない。だから自分の生き死にに関しても確固とした定見が持てず、気まぐれで「大丈夫」と言ったり「死ぬ死ぬ」と言ったりする。そんな気まぐれ屋の父は、明治天皇が死ぬかもしれない、という知らせによって、急に自分が死ぬかもしれないという気まぐれに陥っている。父の弱気は気まぐれである。父が明治天皇に思いを馳せたり、弱気になったりする裏には、なんらかの思想や定見があるのではなく、なんとなくの気まぐれである。


《「お父さんは本当に病気を怖がってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
 私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭いた。》

この母の対処法は非常に滑稽である。母は感情のレベルが低いから深く思いやったり深く心配する事ができない。将棋をやらせて元気付けるというような低い感情レベルにふさわしい付け焼刃の対処法を採っている。
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テーマ : 夏目漱石
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