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『こころ』両親と私(一)

「卒業が出来てまあ結構だ」と私の父は心底満足そうである。私は不快に思って「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません」と言う。父は変な顔をする。そして長々と、どうして結構だと思うのかを説明する。

《「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月か四月ぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合せか、今日までこうしている。起居に不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だから嬉しいのさ。せっかく丹精した息子が……》

この後も長々と続くが省略する。父は間違ったことは言っていない。父が息子のことを愛してるいることも分かる。普通の、田舎じゃなくても、どこでも見られる人情である。
しかし漱石は「無知」「田舎臭い」と一蹴している。

父の人情が下らないことは、思想に生きる人間にとっては自明の理である。父の人情を否定するには、父の人情を超えるほどの思想とか能力を蓄積する必要がある。思想や能力を蓄積すれば、父の人情は簡単に感覚的に否定できるようになる。理屈でどうこう否定するのではなく、思想・能力の蓄積によって否定しないと否定できない。だから理屈では説明できない。それで漱石は父の理屈に理屈で対抗するのではなく、「無知」「田舎臭い」と言って感覚的な否定をしている。この否定のセリフのセンスは、能力の高さに比例する。このセリフ選びはいい。漱石の能力の高さがよく分かる。

自分も漱石ほどではないが、人情やお涙頂戴を馬鹿らしく思えるようになってきた。他人のお涙頂戴にうんざりさせられることも多くなった。漱石は『硝子戸の中』で人生相談をしに来た女に「綺麗に片付くって、部屋の中がですか?」とか言っていたが、あのセンスも大変いい。



ーーーーーー



《私は一言もなかった。詫まる以上に恐縮して俯向いていた。父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚かものであった。》

私は恐縮する必要はない。《愚かもの》だと反省する必要もない。私は父の人情に訴えた長話を否定するべきである。今はまだ能力が高くないから父の人情話に引っ張られるが、能力が高くなれば父の人情話なんぞは簡単に否定できるようになる。…とは言え、私が素直に反省できる性格の柔軟さは、能力を伸ばす過程で大いに役に立つだろう。素直で柔軟な私は、あらゆる精神を取り入れて、あらゆる精神を乗り越えた精神や能力や思想を手に入れて行くだろう。



ーーーーーー



《私は鞄の中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かに圧し潰されて、元の形を失っていた。父はそれを鄭寧に伸した。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中に心でも入れると好かったのに」と母も傍から注意した。》

思想的世界、あるいは普遍的世界に生きず、経験的世界に生きる場合、卒業という経験的事物は大変に重大な事として崇められる。卒業を崇める経験的意識なんぞ全く下らない。《「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」「中に心でも入れると好かったのに」》という滑稽なセリフに漱石の批判意識が込められている。

《父はしばらくそれを眺めた後、起って床の間の所へ行って、誰の目にもすぐはいるような正面へ証書を置いた。(略)一旦癖のついた鳥の子紙の証書は、なかなか父の自由にならなかった。適当な位置に置かれるや否や、すぐ己れに自然な勢いを得て倒れようとした。》

私が恐縮しているのは一時的なものである。私は一時的に恐縮してはいるものの、田舎の人情形態と対決する鋭い精神を持っている。だから卒業証書は(私の鋭い田舎的精神への批判意識を象徴して)父の自由にならず、すぐに己の自然に従って倒れてしまう(動いてしまう)。
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テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

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