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『こころ』木犀と門

《先生の玄関と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐように、夜陰のうちに枝を張っていた。》

「私」にとってこの木犀は先生の象徴なのだろう。美しい木犀は私を魅了しているが、しかし私はその魅力に溺れることはない。私は木犀=先生から自由である。奥さんは先生への深い愛によって先生に溺れ、先生に縛られ、自由に精神や思想や能力を伸ばすことができないでいるが、私は先生を愛しながら先生に溺れたり縛られることなく、自由に能力を伸ばすことができる。
私が《再びこの宅の玄関を跨ぐべき次の秋に思を馳せた時、今まで格子の間から射していた玄関の電燈がふっと消え》た。《先生夫婦はそれぎり奥へ這入った》のである。電燈が消えるということ、先生夫婦が奥へ入っていったということは、私は先生夫婦とこれっきり縁を切って、先生夫婦とは全く違った新しい能力や精神や思想を創造してほしい、という漱石の願いである。いつまでも木犀=先生に魅了されているのではなく、さっさと門をくぐって広い社会に出て、新鮮な空気を吸って、先生に代わるような新しい思想なり精神なりを作ってほしいという漱石の強い願いが感じられる。実際、門をくぐって外へ出て、田舎へ帰った私は、先生を自殺によって失って永遠に会うことができなくなってしまう。しかしそれでいいのである。先生は優れているが決定的な限界を持っており、いつまでも先生に魅了されていてはいけない。先生の精神を受け継ぎつつ、先生の精神と分離して、独立的な精神を作らなければならない。

門を出た私の眼前に広がる外の世界には、先生のような優れた人物は一人もいない。誰も彼もが、用事や目的を持たず、ただブラブラとだらしなくその日その日を適当に生きている。先生は能力を極限まで突き詰めたうえで、何をすることがなくなってしまい、その結果ごろごろしているように見えた。しかし先生以外の人々は能力を高めるという目的も持たず、かといって何もやる気がなくて、それでごろごろとしている。無為の、怠惰のごろごろであって、先生のごろごろとは全く違う。たとえ財産や地位を持っていても、あるいは友人や恋人に恵まれていても、思想に関心を持たず、無目的にその日その日を適当に刹那的に楽しんでいるのならば、その人生は不毛であり不幸でしかない。大抵の日本人はその日その日を適当に刹那的に生きる不幸者として漱石は厳しく描いている。
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テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

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