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夏目漱石『こころ』感想

私の父は私が課業を放り出して帰って来たことに喜んでいる。父親としての威厳が保たれたことへの満足や、また親子間の義理や情を守ってくれた私への感謝の気持ちがあるのだろう。父は父権とか義理とか人情とかいうあらゆる価値観に縛られている。あらゆる価値観に縛られない先生だったら「おや、本当に来たんですか」とか、「わざわざ来なくても、よござんしたのに」などと、いっていただろう。しかし私の父は元気になって床を上げさせるほどに喜んでいる。

だが、そのような喜びも最初だけで、父はすぐに私の存在に飽き飽きしてしまう。その原因は、父に先生のような能力がないからである。
先生と私は能力で繋がり、能力で会話し、能力で親しみ合い、能力で信頼関係を深め合っていた。
能力と能力の交流ができれば、どれほど一緒にいようが、飽きることがない。たとえば、沈黙でも楽しい。その沈黙は両者の能力が作り出した沈黙であり、沈黙にすら味わいがあるから。経験的意識を超えた高度な交流である。
しかし私と父は能力で交流しない。父に能力がないから、能力がある私でもさすがに能力で父と会話するなんていう芸当はできない。だから二人の交流はどうしても将棋になってしまう。駒を間違えて火鉢の中に落として、それを母が火箸で挟み上げる、という偶然的で馬鹿らしいハプニングが会話のタネになる。「椎茸を上げなさい」「先生が椎茸を食べるかな」…などという会話も馬鹿らしい。そのうえ実用的である。実用のための会話であって、実用が終われば(「いいでしょう。椎茸を上げましょう」と私が承知すれば)、その会話はそこで終わる、興がすぐ醒める。「醤油取って」「はいよ」で会話が終わるのと同じであって、会話に全く意味がない。会話と娯楽のすべてが経験的意識で作られている。だから父はすぐに私との関係性に飽きてしまう。当然私もすぐに飽きてしまう。人情とはこういう退屈で下らないものである。しかし日本人はこういう素朴で濃密な人情を賞賛してやまない。「田舎の人情」「都会人が忘れた美しい人間の原風景」などと諸手を挙げて評価するが、漱石は田舎に濃密に残る人情を徹底的に批判している。人情を否定しなければ先生は理解できない。人情が大好きなあまりに濃密な人情が色濃く残る田舎に移住するような人情オタクの日本人には先生の理解はできにくい。


ーーーーーー


「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆いものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」
「先生もそんな事を考えてお出ですか」
「いくら丈夫の私でも、満更考えない事もありません」 
先生の口元には微笑の影が見えた。


先生は能力が高いゆえに死にたいと思っている。しかし「私」がそれを理解できないから思わず笑っている。普通は「どうして理解してくれないんだろう…」と思い悩む。悔しくなるし、絶望してしまう。しかし能力が高くなると人から理解されることをあきらめて、悩みや悔しさや絶望を超越し、深い余裕を得るようになる。

漱石門下生の江口渙(えぐち・かん)という人が、漱石に「『こころ』の先生は絶対許せない」といったらしい。すると漱石は「許せないですか」と聞き、江口がまた「許せない」というと、ただ微笑をしていたという。これは後に詳しく書くと思うが、先生がKにした行為は正確には「非道な裏切り」ではない。先生は高い能力ゆえにKを破滅に追いやったのである。先生の「非道な裏切り」ではなく先生の高度な能力がKを自殺させたのである。先生がKにした行為は先生の高度な能力を理解しなければ一歩も認識できない。しかし漱石は先生の能力、ひいては自分の能力が高いあまりに、誰も『こころ』を理解できないだろう、レベルの低い的外れな理解をするだろう、と確信していたに違いない。それで江口渙が「許せない」といったとき、漱石の予期していた通りあまりにもレベルの低い理解をしていたので、思わず笑ってしまったのである。能力が高い人間は俗世間の理解なんて期待しない。ただ黙って微笑するだけである。漱石の微笑は漱石が日本の国民精神を超えて、日本の国民精神からの完全な分離・独立を果たし終えたという証である。だから漱石の微笑は意義深く感慨深い。
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テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

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ブログタイトルは夏目漱石の「黙々として牛の如くせよ」から。

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