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夏目漱石『こころ』雑感

《私の眼に映ずる先生はたしかに思想家であった。けれどもその思想家の纏め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりする程の事実が、畳み込まれているらしかった。》

これが先生の特徴であり弱点である。思想のなかに個別的・経験的な苦悩が入り込んでしまっている。
友人を裏切ろうが、その友人が首を切って自殺しようが、それが何だというのだろうか。そんな下らないことで悩み自殺するのは軟弱な男だろう。ラモーが聴いたら笑い飛ばしていたことだろう。
そんな下らないことで、せっかく築き上げた思想を自殺と共に消滅させるというのは、なんという愚かな、馬鹿な、思想家の風上にもおけない卑怯者であろうか。
先生の思想は罪悪感によって形成されたものであるから、先生の思想は破滅(自殺)と表裏一体であり、仕方のないことではあるし、それに先生の限界や自殺には日本の国民精神の限界が表現されているので、やはり自殺という展開を取るしかなかったのだろう。それはもう仕方ないが、それでもやはり先生は愚か者として規定し、その愚か者を超える精神を形成しないといけない。
「私」はいつまでも自殺した先生を慕っている場合ではない。早く先生を超えて先生を忘却しないといけない。



先生は能力の高い者に特有の、個別的・経験的な人情・感情を否定する淡白さ(=思想的な強さ)を持っていた。そして自己の運命を受け入れ、どこまでも運命を押し通そうとする度胸を持っていた。先生はそんじょそこらの下らない思想家どもの寄り付けないほどの覚悟と強さと度胸を持っていた。そのうえに誠実だった。しかしその誠実が先生から罪悪感という個別的・経験的苦悩を忘れさせることを許さなかった。誠実な先生は一生涯、片時も罪悪感を忘れることができなかった。さらに持ち前の度胸でどこまでも運命を(罪悪感を)押し通していってしまった。誠実と度胸が罪悪感という毒を盛る器になってしまった。先生の死は先生の弱さとして否定されるべきであるが、先生の死には評価すべきもの、学ぶべきものがあり、それらを見落としてはいけないし、それらを見落とせば先生の死を超えることはできない。



昔、自分の母が『こころ』を読んで、先生は友人を裏切って、しかも自殺して逃げた、絶対許さない、と、ほとんど激怒していた。これは間違いで、先生は誠実に自己の運命を押し通した結果、Kを裏切った(実際には裏切っていないが)のである。自殺も誠実に運命を押し通した結果である。
Kの死にとことん道義的責任を感じて、Kの自殺にとことん罪悪感を感じ、そして責任を取って、Kの無念をまるごと受け入れて、先生は自殺したのであった。道義的に逃げた訳ではない。

ただ、先生の死の動機には、Kに対する思いの他に、思想的な限界を感じ取ったから、という、思想的な動機も含まれている。先生の死は個性と同じく複雑である。

母が漱石を読んだのは、自分(野間)が読んでいたから興味が湧いて読んだという理由があった。自分が読んでいなければ母も読んでいなかっただろう。
色々な人に出会って来たが、自分の周囲で漱石を読んだことのある人は、唯一母だけだった。自分の友人が「哲学は日本では広く読まれていない」といっていたが、哲学どころか漱石も、それほど読まれてはいないのかもしれない。そもそも本そのものがあまり読まれていないようだ。漱石の精神が国民的な関心事になるのはいつになるのだろうかと思う。さらに漱石の精神が完全に理解され、漱石の精神が克服されるのには、あと何十年かかるのだろうかと思い気が遠くなる。





「私」は学問を否定する。それと同じように奥さんは流行の浮いた言葉を使わない。あらゆる既存の物事を否定すること。あらゆる物事に自分の心が汚されないようにすること。心の美しさを保ち、能力や誠実さを維持すること。それが先生の能力に近づくことである。
能力の高い私と奥さんは、先生の能力とはまだ一致ができないが、先生の能力を感じ取る力がある。
どちらが先生の能力に接近できているかは分からないものの、先生が深く愛しているのは奥さんである。
誠実な先生は能力を完全に理解できる人間だけを愛そうとする。だから普通の凡庸な人間は先生と信頼関係は結べない。軽薄な学問や浮ついた言葉を愛する人間には、先生の誠実な高い能力を理解できないし、理解しようともしない。しかし奥さんには先生の能力に近付こうとする意欲がある。能力に対する深い理解はできていないが、先生に高い能力があることは漠然とながらわかっているし、先生の高い能力の反映された先生の誠実な人格に惹かれている。先生もそのような奥さんの誠実や己の能力に誰よりも接近している奥さんの能力に敬意を払い、奥さんを愛している。だから先生は奥さんのいう通り奥さんを失えば不幸になるに違いない。
不真面目で軽薄な国民精神に覆われている日本において、奥さんほど能力のレベルが高く、誠実な人間は非常に少ない。奥さんの代わりになる人間関係はそうそう見つからない。もしも奥さんを失えば先生はもっと早くに自殺を決行しただろう。先生にとって奥さんは数少ない生きがいの一つである。そして先生と奥さんは通俗的な愛という人情ではなく能力によって結ばれている。だから二人の愛情は普通一般に見られる人間関係よりも深くなる。
先生と奥さんのように、人間関係というものは能力と能力とで結ばれなければ、本当の人間関係とはいえない。能力で結ばれない場合、深い信頼や愛情や友情が形成されない。薄っぺらい利害心や、俗物的な好奇心が蔓延している精神レベルの低い日本では、先生と奥さん、そして先生と私のような、不純物のない純粋で高度な心と心の交流は生じにくい。だからこそ先生は奥さんを深く愛する。先生には奥さんという人物が日本ではどれほど得難い存在かを痛いほど知っているから。
先生・奥さん・私というキャラクターの透明な美しい個性は、高い能力と誠実さを持って初めて生まれる個性である。国民精神が腐敗した日本ではなかなか見られる個性ではないので、長い間多くの読者を魅了し続けてきた。そして多くの読者がこの三人の個性の謎を解明しようとしてきたが、国民精神が腐敗しているから、ほとんどの読者は「先生は同性愛者だ」とか「私と奥さんは惹かれ合っている」などといった俗物的な好奇心で解釈し、ことごとく誤読を繰り返してきた。
三人の個性は高い能力で形成されているから、三人と同じような高い能力を持たないと三人は理解できない。三人と同じ高い能力を持ち、三人と心の深い所で共鳴し合わないと、本当の理解には届かない。腐った好奇心は三人の理解には何ら役に立たない。学者の浮世離れした専門的で衒学的な知識によっても三人の理解には歯が立たない。
しかし三人と同じ能力と誠実ささえあれば、たとえ学者でなくても、簡単に三人を理解することはできるだろう。俗物的好奇心や肩書きはむしろ三人を理解する障害となる。地位も肩書きもない、名もない素直な庶民こそが先生を本当に理解できる可能性を持っている(実際、私と奥さんは地位も肩書きも名もない庶民である。二人はただ誠実さや素直さだけを持っている)。膨大な学問的知識や溢れるような情熱や多大な時間を使って漱石作品を分析する研究家はたくさんいるだろうが、精神が歪んでいたり俗物だったり学的功名心が目的だったりすれば先生・奥さん・私の理解には永遠に届かない。あらゆる醜い根性や冷たい心や利害心を捨て去って、温かい素直な心を持ったときに初めて、先生・奥さん・私の心に近付くことができるだろう。『こころ』を理解するということは自己の心を浄化する作業である。日々心を浄化しながら読んでいけば日々新しい発見があるだろう。読者がそういう心がけをもって読めば、『こころ』は文壇の学者達の汚れた手から離れて、庶民の手に取り返すことができるだろう。そして『こころ』は永遠の生命を持つことができるだろう。そして『こころ』によって絶えず心を磨き、心を更新していけば、先生・奥さん・私を超えた高い能力や誠実さを所有することができるようになり、国民精神の発展を促すことができるだろう。漱石はそれが実現できるのは自分の死後百年後だろうと予言したが、その予言は外れてしまった。醜いファシズムが跋扈するしばらくの間は『こころ』の意義は理解されない。『こころ』の意義が理解されて『こころ』に命が灯るまでにはあと百年はかかるかもしれないけれども、心ある誠実な読者は諦めずに『こころ』の理解に挑戦し、理解される社会状況が来るまでに理解されやすいような理解の下地を作っておかなければならない。『こころ』の理解こそがファシズムと深刻に対立しファシズムを根治する手段となるし、ファシズムに限らずあらゆる腐った国民精神を浄化する手段となる。
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テーマ : 夏目漱石
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