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夏目漱石『こころ』感想

能力が高くなると『それから』の代助のように社会が暗黒に見える。不毛で軽薄で、つまらないものに見える。そのために無気力で厭世的になってしまう。ところが能力をさらに高めると、能力は(先生のように)精神の奥深くへと沈潜し、能力は社会などの経験的事物から切り離され、能力は純粋に能力そのものとして、個別事象や個別の苦悩から自由になる。先生のように能力が高くなれば、能力は能力として楽しむことができるし、経験的人生は経験的人生として楽しむことができる。能力と経験的人生が分離され、楽しみは深くなるし、人生がより豊かになる。ところが先生はそうはいかなかった。先生の能力はKを裏切ったという罪悪感によって塗抹されていた。先生の能力は高度でありながら、罪悪感という個別的・経験的な苦悩に束縛されるという、かなり特殊な形式の能力である。超然としていながらも、個別の苦悩に支配されるという、分かりにくい、少し複雑な能力である。



白井道也は実生活の中で能力を鍛えていった。実生活と能力。この二つを道也は楽しんでいた。普通は道也のように生きるのが一般的である。
ところが先生はKを裏切ったという罪悪感に深く苦しめられていた。だから先生は奥さんと実生活を楽しみながらも、実生活を楽しむ資格がない、と思い詰めてしまう。能力も罪悪感によって行き詰まっていた。
先生は能力と実生活を罪悪感という個別的な苦悩によって駄目にしてしまった。
先生の行く手をKの墓が邪魔をした。奥さんと実生活を楽しみながら、能力を鍛えて楽しむという、道也のような生活を、Kの墓が邪魔した。
先生はKの墓を超えることができず、Kの墓に縛られて、破滅することになった。
先生の人生も能力も非常に特殊である。



本来能力は高くなればなるほどに個別的な苦悩に縛られなくて済む。先生もKへの罪悪感を克服していれば、能力を伸ばしていったことだろう。
先生のこの停滞、失敗、挫折は、先生の限界として、先生の弱さとして、否定的に捉えるべきである。先生の自殺や苦悩には学ぶべきものが沢山あるが、何か大きな意義や意味を見出して、敬意をはらったり、魅了されるものではない。先生の自殺と苦悩は弱さとして否定し、先生を超えて、自己の能力を先生以上に伸ばすように努力するべきである。結局、個別の苦悩に縛られた先生は大した人物ではないのだから。
「私」のように、能力が個別の苦悩から自由であれば、誰もが先生を越えられるだろう。しかし「私」のように先生を崇拝していれば先生は越えられない。先生を尊敬し先生から学びながらも、先生を否定し超えること。それが『こころ』の本当の理解である。理解が『こころ』という作品への埋没であってはいけない。超える理解が重要である。
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テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

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