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夏目漱石『こころ』感想

『こころ』の私には、先生を研究的に見る目が全くない。用心深い先生は何度も何故来るのかと問いかけるが、「そりゃ又何故です」という私の全く底意の感じられない返答に、先生は安堵し、じょじょに信頼していく。個別の利害で繋がらない純粋な関係性で、日本では珍しい、美しい友情である。バルザックやディケンズといった海外の文豪の描くような激しい感情の存在しないきわめて素朴な関係性だけれど、二人の関係性は激しい感情の伴う関係性を築くための出発点であり基本となる。先生と私が激しい感情を持つことはないだろうが、この二人の関係性は誰もが持つべき関係性の手本として参考にし、そしてこの手本を関係性の基底に置いておけば豊かな感情を発展させることができるだろう。漱石は読者に二人の関係性や精神性を超えるようにと暗に促しているように見える。二人の関係性を神棚にまつるのではなく、二人の関係性を超えて、いずれは二人の関係性を古い物にして、最終的には埃のかぶった化石として忘却するまでにならなければ人間の精神性も関係性も社会も発展していかない。二人の関係性・精神性はすぐれているが停滞している。『こころ』に魅了される人は多いが、停滞した関係性・精神性にいつまでも見惚れるのではなく、乗り越えていかないといけない。二人の関係性・精神性を廃棄し止揚し成長していくことが二人に対するリスペクトになる。



先生は日本に存在するあらゆる精神を否定する。よって自分の精神も否定している。国民精神全体を自分の精神をも含めて徹底的に厳しく否定する所に先生の徹底した高い能力が表れている。だからこの自己否定は自己卑下ではなく自己肯定である。しかし現象的にはその自己肯定は、自己卑下の形式で、淋しい雰囲気として、先生の人格に反映されている。その雰囲気が奥さんには額面通り「自己卑下」「淋しい」と見えてしまう。能力のある私にはそれが先生の能力の高さとして無意識に感知される。
先生は自分の能力を否定し、自己を卑下している。淋しい人間だと思っている。だから、自分のような淋しい人間の所へやって来る私が理解できない。そこで私の精神にも淋しさを想定し、淋しいから仕方なく自分なんかの所へやって来るのだ、と理解している。
私は淋しくない、明るい、健全を絵に描いたような青年である。私は淋しさではなく高い能力を持っている。その高い能力が先生の高い能力を敏感に感じ取り、引き寄せられて、それで先生の所へやって来ている。


先生は子供ができない原因を「天罰」といって、高く笑っている。『門』の主人公(宗助)は友人を裏切ったことに苦悩していた。苦悩というのはレベルの低い精神である。人の採る行為は生まれた場所や環境によって決定される。人は主観ではなく運命によって行為する。裏切りという行為も運命によるものであるから、人は主観的に悩むのではなく、運命を受け入れて、どこまでも自己の運命を運命のおもむくままに押し通すべきである。苦悩は停滞であるし、運命から逃げるという卑怯な、消極的な行為である。先生は宗助の苦悩から何歩も進んで自分の運命を受け入れている。苦悩するよりも運命を受け入れて高く笑う行為のほうが裏切った相手に対する敬意になる。



本当に深い能力というものは、あらゆる経験的な物事から無縁であり、それゆえに、普通の経験的な意識から見えづらい、所有者の精神の深い部分に沈潜している。だから奥さんには先生の能力は見えないし理解もできないが、先生の能力からにじみ出る誠実な人格を誠実に愛する能力を奥さんは持っている。先生の能力は先生でさえも意識できないくらい高度であるから、それほど高度であるがために先生の能力は精神の奥深くに入り込み先生自身にすら意識されないままである。先生の能力が見えにくいのは、日本の国民精神の能力が極端にレベルが低いためである。日本の国民精神は経験的な物事に意義を見出そうとする。その真逆に先生の能力は経験的な物事から無縁であり、経験的な物事をのみ観察しようとする国民精神の視線からは先生の能力は発見されない。ただ私という青年だけは突出した能力を持っており、たった一度先生を見ただけで、先生の能力を感知することができた。ただ私の能力は具体的ではない、感覚的である。思想的鍛錬を積んでないし、長い人生経験によって洗練されてもいない、素朴で無垢で初心な能力である。しかし社会のあらゆる経験的な物事に染まっていないからこそ生まれることのできた、初心ゆえに高度な能力である。私の能力は社会に出た時、伸びるかもしれないし、潰れるかもしれない。その能力の行く末を漱石は描いていない。とにかく漱石はあらゆる経験的な物事のすべてと縁を切っており、私との縁も切っている。私がどうなるかは私の勝手である。干渉はしない。先生もそのような淡白さを持っている。干渉しない、勝手にしろ、…そういう私に対する人情のなさが能力の高さであり私に対する高度の愛情である。


先生は能力が高く、能力が経験的な物事とは無縁で、能力が精神内部の奥深くに沈潜しているから、いちいち能力が経験的な物事に反応したり苦悩したりすることがない。先生は能力から自由である。だから奥さんと音楽会や芝居や旅行に行けるほどの余裕がある。



奥さんは先生の能力を理解できていないが、高度な経験的意識によって、先生の能力を可能な限り理解しようとしている。その経験的意識による理解が先生を苛立たせ、喧嘩の原因にもなるし、また和解の原因にもなる。結局は先生と奥さんは信頼関係によって日本においてはあり得ないほど深く結ばれている。しかし深く結ばれているにも関わらず奥さんは先生を理解できないという所に、経験的意識にしか生きることのできない日本の国民精神の限界を感じさせる。先生が限界を持っているように、奥さんも限界を持っている。私はこの両者の限界を超える可能性を持っている。だから先生に「強い人に見えますか」と聞かれた時、先生のことを「中位に見えます」と答えることができた。私は先生にべったり依存していて先生のことならなんでも肯定するように見えるが、実は先生を超える可能性を持っているので、先生の能力の高さだけでなく先生の限界をも感じ取る感性を持っており、先生を「中位」と規定することができた。先生は今まで経験的意識によって生きる人間としか交流がなかったようだ。友人や知人は奥さんのように経験的意識のレベルが浅く、よって先生の能力を低く見積もっていたことだろう。経験的意識のレベルが高い奥さんは経験的意識の限界内において先生の能力を鋭敏に感じ取り、先生の能力を高く見積もっていたことだろう。これまで先生は「低い」か「高い」かの評価しか受けてこなかったに違いない。どちらも両極端で、先生の能力を「侮る」か「美化しすぎる」か、という、先生の本来の能力を見誤るものであった。先生が不満や苛立ちを感じるのは無理もない。しかし、そんな時、私が先生を「中位」と評価した。これは先生にとって人生で初めて受ける、的確な評価だったに違いない。私は先生の能力を超える素質を持っている、有為な学生である。有為だからこそ私は先生の能力を客観的に推し量ることができたのであった。おそらく先生はそのような私の能力や客観性に感動し、私に対する信頼を一層厚いものにしたに違いない。このような私の能力への信頼が、先生に過去を暴露する手紙を書かせる勇気をじょじょに蓄積していく。

私は、先生が奥さんと喧嘩をした、という話を聞いておきながら、少し動揺しつつも、先生に説教をしたり、変に気遣ったりしない。そのかわり「帰るとき歩きながらの沈黙が一丁も二丁もつづいた。」とある。この相手に干渉しない態度、淡白さこそが、相手に対する信頼や尊敬や愛情の証である。沈黙は私の優秀を意味している。先生は色々な人間関係を経験してきただろうが、私のような人間関係は初めて経験する、新鮮で気持ちの良いものだったに違いない。

先生と奥さんは結局は深い信頼関係で結ばれている。喧嘩は奥さんが先生を間違って理解するために生じたが、その間違った理解は(恐らく)先生を世間に認めさせようという、先生を経験的に素朴に肯定する理由から生じたものであった。しかし先生の能力は経験的意識の範疇を超えており、先生は世間に理解されることができない。経験的意識(世間)を超越するほど先生の能力は高い。しかし先生はその自己の高い能力に気づいていないし、自己の能力を規定することができていないうえに、自己の能力の高さゆえに自己の能力を理解することができていない。むしろ先生は自己の能力を否定している。能力が高いゆえに、先生は自己の能力を否定するという、複雑な能力を持っている。そのような複雑な自分でも意識できていない能力を奥さんに自己の説明することはできない。先生にとってこのよく分からない自己の能力は、うとましい、腹立たしいものだったに違いない。その能力を奥さんにあれこれ言われたら、怒るのも無理はない。しかし奥さんは先生の能力と能力ゆえの苦悩を深く理解できていないながらも、先生の能力を高く評価する観点から、先生の能力におせっかいを焼いている。それが先生の気に障るし、先生の奥さんに対する信頼関係を蓄積させる。先生と奥さんの喧嘩は信頼関係の崩壊ではなく、二人の信頼関係を促進させる、信頼関係促進の喧嘩である。しかし、奥さんは私のように先生に対して沈黙(不干渉)という態度を取ることができない。沈黙=不干渉こそが先生に対する正しい態度であり、先生の能力に対する正しい理解・尊敬のあり方である。その点で私は奥さんよりも先生の能力を正しく理解している、と言える。だから先生は奥さんではなく私に手紙を贈ったのである。奥さんは先生の能力を理解できず、経験的意識の範疇において、人情の形式で先生を愛する(干渉する)。それが先生にはうっとおしい。同時にそれが孤独な先生には有難くもあり、愛おしくもある。何しろ先生の能力は圧倒的に高度なので、それゆえに人が近寄って来ないので、奥さんのように間違って自己の能力を解する人間の存在ですら非常に貴重である。先生は高い能力ゆえに滅多に愛されない。そして、愛することができない。先生は奥さんをも愛せない。先生の能力と奥さんの理解が一致しないからである。また先生は私を愛することもできない。私は先生の能力を正しく理解できているが、まだ若く、完璧に、具体的には理解できていない。だから私の理解も先生の能力と一致できず、よって先生は私を愛することができない。先生において本当にその人を愛するということは、人情的・感覚的な意味において愛するということではなく、その人の能力・精神の正しい具体的理解である。それこそが本当の愛である。先生は愛の意味をここまで深く理解している。だからこそ先生は《人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人》である。しかし愛への理解が徹底しているために《それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事の出来ない》人である。先生が人を愛するには、その人が先生を深く理解する必要がある。深い理解なしに愛するという行為は偽善であり茶番である。思わせぶりな、くだらない、偽物の愛である。愛には激しい行為はいらない。愛にはただ静かな相手に対する理解だけが必要である。だから愛という行為は人間の感情において最も激しい行為であるにも関わらず、最も静謐な態度・形式で実行しないといけない。私の不干渉、沈黙……それこそが相手を愛することである。相手(先生)を干渉する奥さんの行為は愛には違いないが愛を徹底できていない。つまり先生への理解が徹底できていない。徹底できないから、愛を(理解を)求めて、うるさく干渉する。こういう人情系の干渉はうっとおしくて仕方がない。しかし奥さんの愛は経験的意識において高度であるから先生にとってはうっとおしくても有難い。愛せはしないが、愛すべき存在である。




先生は奥さんを愛していないと書いたが、間違いで、愛していると思う。ただ奥さんは先生の能力を「理解」していない。だから徹底した愛ではない、と先生は考えている。徹底した相互理解が本当の愛で本当の幸福であると先生は考えるから、先生と奥さんは本当には幸福ではない、だから「幸福に生まれた人間の一対であるべき筈です」となる。

先生を愛する(理解する)人はいない。だから先生は誰も愛することができない。
先生は自己の運命(階級性)を徹底していった結果、能力を高め、社会と分離した。その代わり社会からの理解を失い、先生も社会に対する理解を失った。先生の孤独は、先生の性格が寂しいから、ということではなく、先生の階級性の問題である。

「先生は経験的意識を超越した」と書いたがこれも間違いかもしれない。
先生は経験的意識の限界内で能力を高度に発展させたようである。しかし経験的意識をぎりぎりで超えているようにも見える。これはどっちでも良いだろう。とにかく先生の能力は高度である。
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テーマ : 夏目漱石
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