知の楽しみ その1 『小論理学』 第八回 序論 第六節【書き起こし】





今日は第八回第六節です。

ここはヘーゲルの法哲学の序文の理性的な物は現実的であり、現実的な物は理性的であるという命題を問題にしています。
ここで問題になるのは哲学の対象は現実であるという意味だからですが、序論の第六節でこの命題を批判的に観察するのはちょっと難しいです。


色々知識が必要になります。一応批判はしておきますが分かりにくいかもしれないです。
同じ問題がこの後何回も出てくるのである程度理解できれば十分です。


まず哲学の内容を一口で言えば現実である、とこう思います。これは正しいです。
次にこの内容を最初に認識する物がいわゆる経験である、こうなると、これは哲学の分岐点で間違いです。
「最初に」というのが間違いです。


ヘーゲルがここで「最初に」という言葉を使うのは現実を二重性において認識するからです。
経験的な意識による現実認識というのはヘーゲルが言うように単に現象に過ぎない物、一時的で無意味な物と、それ自身真に現実の名に値する物に区別されます。


この二重化がいつも問題になるんですが、ヘーゲルは現実をこのように二重化したうえで、哲学は現実と一致しなければならない、現実との一致が哲学の正しさの試金石である、現実との一致が哲学の最高の究極目的である、と言います。


これは、それはそうなんですが、ところが現実を二重化すると意識が現実と一致できないことになります。


経験的意識は個別存在を対象とする場合に、意識が現実と、あるいは個別存在と一致できない、ということがあって、それを克服するために二重化して実体を想定して、それを認識しようとするんですが、これでも駄目です。


現実との一致とは真の現実との一致なんですが、真の現実とは何かはやっぱり規定できないので、あるいはそれは存在しないので、二重化によっても現実と意識の一致は獲得できないことになります。


ヘーゲルは世界認識を認識の深さで二重化するんですが、経験的意識は表象でも思惟でも、意識は次第に深くなります。
いくら深くなっても二重化は生じないです。実体には届かない。ヘーゲルはより深い認識を哲学認識としていますが、哲学は全体を直接認識するのであって、個別存在を深く認識するのではないです。


個別存在を深く認識していくのは無限進行になります。
意識は現実、あるいは客観的世界を認識するんですが、問題はその客観的世界・現実はどのように認識されるか、できるか、です。


これはドイツ古典哲学の最も高度な課題になります。
現実認識は現象と本質に区別されて二重化されて認識できるのか、ということです。
それとも個別存在と客観的世界の全体の区別において認識されるのか、ということです。


ヘーゲルは全体をこの二重化によって認識されると考えてますがそれはできません。
前節までの説明で言うと、経験の内容は二つあります。
認識形式は表象と思惟の二つで、認識対象である現実は二つです。それは個別存在の集合である世界と客観的世界の全体です。集合は全体じゃないです。客観的世界の全体というのは全体を直接認識する、そういう意味での全体です。


ヘーゲルのように現実世界は浅い認識と深い認識、あるいは現象と本質に分けられるのではない、ということです。これは一応結論です。これを長々と証明していかないといけませんが、一応そういう対立があるということを序論の段階では理解しておくといいです。


個別存在、あるいは事象は、それ自身が変化していて、さらに他の個別存在と関係しているので、個別存在自身も一時的な現象と他からの影響を属性として持っています。


対象認識ではそれを排除して認識しなければならなくなります。これが経験科学の認識方法です。
これは暫定的にそうするだけで実際はこのような対象認識は成立しないことになっていきます。
この方法ではどうしても対象と意識が一致できないので哲学が生じるんですが、その哲学はそもそも現実認識において個別存在を前提しない、客観的世界に個別存在があるとは考えない、ということです。無視します。


個別存在の認識はしない学問が哲学です。
そして哲学的認識というのは客観的世界と一致できる認識です。これも結論だけ言っておきますが。
客観的世界の全体を直接認識する論理学では客観的世界に非現実的な物というのは存在しません。全体が一つの対象なんだから、現実的な物と非現実な物との区別もないです。
現象、あるいは一時的で無意味な物と真に現実の名に値する物との区別も存在しない。
論理学は現実を分割しません。これも全て結論だけですが、これを証明していきます、これから順番に。


第二文が有名な法哲学の命題の説明なんですが、この命題は非常に有名で、重要な命題だと思われていて、ヘーゲル自身も非常に重要な命題だと考えていて、そう評価されているんですが実は単なる同語反復で無意味です。


馬はホースである、というのと変わらない。現実的というのはヘーゲルの場合は理性的と同じ意味だからです。
この命題が批判されたのは現実を肯定している、現実擁護である、無批判的である、というふうに考えられたからです。


それに対してヘーゲルは弁証法的発展法則の観点から、この命題を肯定します。マルクス主義もそう考えています。
ヘーゲルは個別存在・事象を認識対象として客観的世界を現象と本質、現象と実体等々に二重化します。
ヘーゲルは実体とか真理とか本質というのは対象の発展法則を意味しています。


この発展法則のことを理性的であると言います。
発展法則というのは発展するのだから現状を否定しているのだから、現状を否定していく新しい力が真の内容であるから、現状を否定して発展する現実こそが真理なんだから、それを肯定するのが批判的であって否定的であって理性的であるというふうに展開していきます。


これは経験科学による対象認識の一般化として正しいです。これを現状に対する無批判性、あるいは現状肯定である、というのは間違いです。
それに対する法則的観点からの反批判というのは弁証法の立場からの反批判です。
ヘーゲル、あるいはマルクス主義は弁証法の立場からそれを反論しますが、これは非常に単純です。


こういうヘーゲルに対する批判もヘーゲルによる反批判も同じ経験的な意識の内部の意識の対立です。弁証法も同じです。経験的意識です。
今ではこういう対立、現実的な物は理性的であるというのは現実擁護である、それに対して現実というのはその法則性・理性性・否定性を意味するからそれこそが批判的な意識だ、というような対立はこれは弁証法的な段階での対立、関係概念での対立です。


今ではもうこういうことは使いません。これは理解しておかないと、弁証法も理解しておかないと駄目ですが、このレベルでは現実認識はもうできなくなっています。
こういうことはこの後の文章で分かってきます。次の文章の、神こそが最も現実的である、というのは第一節で、哲学と宗教は両者ともに最高の意味における真理の対象としている、というのと同じです。


最高の、というのはヘーゲルの絶対的な法則的な全体的な現実という意味です。こう書いても、どうってことはないです。個別存在の諸法則を束ねることを意味するだけなので、個別存在の対象の発展法則をまず認識する。その発展法則と他の認識がまた関係していって、それをまた発展法則になっていく、ということです。


だから絶対的な真理というのは個別存在の諸法則の体系的系統的法則化ということです。
それは法則の認識が量的に拡大しているだけで、全体認識ではないです。だから哲学ではないです。
経験的な意識の発展ということになります。


個別存在を対象とする経験科学の認識方法には限界があります。
ヘーゲルが言うように神でも絶対者でも真に現実の名に値する現実だけを支配して偶然的な物は支配の手から漏れています。認識からも漏れます。
実際これを認識できないと真に現実の名に値しない現実も値する現実も認識しないので、漏らすわけにはいかないのですが、しかし一応これを否定しなければならない。こういう無理な立場にあります。


それを否定するとすると、神や絶対者は現実の全てを支配していない。この場合は個別対象の認識も限界があって現実には間違っています。排除することによって間違いが生じます。一面的になります。
神がつまらない物だ、あるいは偶然的な物だと考えてそういう対象を否定しても、全てを支配するべき全知全能である神とか絶対者が理性的な現実の部分しか知らないのだったらそれはもう無知です。


偶然的で一時的と考える現実を非現実として否定するのは、それはその意義を認識できないという意味で、実際は重要な現実とそうでない現実を分離できるものではないです。
だから結局こういうふうな分け方をすると神も絶対者も無知か無力になります。


それは次に示される気まぐれとか誤謬とか悪とかいう物の扱い方です。
ヘーゲルは気まぐれとか誤謬とか悪とかみすぼらしい一時的な存在や偶然的な存在、こういう物は真の現実ではないと言うんですが、これはヘーゲルの言う真の現実と区別されてその対立物として排除されるんだから、真の現実にとって真の現実が何かを規定するうえで現実においてもまた認識においても重要でない、ということは言えません。これとの関係で真の現実も成立しているので。

それからこういう区別は現実には不可能です。
あらゆる気まぐれとか誤謬、悪といった物が、現実において必ず大きな役割を果たしてきます。


現実は関係において成立しているからで、ヘーゲルは現実の複雑な関係を現実的な物と非現実的な物とに勝手に区別しているんですが、現実にはそんな区別はなくて、全体が一つの関係、一つにまとまるような関係を構成しています。


だから全体の関係が全体として真の現実であって、全体の一部分が真の現実なのではないです。
現実は常に変化しているので何が重要で何が一時的でみすぼらしいかは、主観的に一時的に相対的に規定できるだけで確定することはできないです。
あるつまらない現象が突然重要な意義を持ってくるのが歴史的現実の常です。


またある事象が重要であるかどうかというのはその他の事象との関係において規定されるのだから、それ自体として規定できるものではないです。
重要度は関係において常に変化します。どのような関係において規定するかで重要度も内容も変わってきます。
だからヘーゲルの区別というのは不可能です。非常に単純な非現実的な単純化された想定に過ぎないと言えます。


論理学は客観的世界の全体を認識するので、全体の中に現実的な物と非現実的な物、一時的な物と永遠的な物、重要な物と重要でない物、と、こういう区別はないです。


こういう言葉、あるいは思惟規定は出てこない。全体認識である論理学において規定される必然性とか偶然性のカテゴリーはヘーゲルがここで使ってる弁証法的な意味とは全く違っています。
論理学の中で必然と偶然のカテゴリーの内容はヘーゲルが言うような必然性が重要で偶然性が第二義的である、というな意味、あるいは必然性が法則的で偶然性は非法則的、あるいは外的法則であるかのような、そういう意味はありません。


ヘーゲルのこのカテゴリーの使い方を見ると、ヘーゲルの経験論的論理学では必然性と偶然性のカテゴリーの内容を規定できないことがよく分かります。
カテゴリーの内容を正しく新しく規定しないと現実認識はできなくなってくることも分かります。
弁証法的な内容のカテゴリーでは現在の非常に複雑な現実認識はできない、ということになってきます。


ヘーゲル哲学もその後継者のマルクス主義哲学も、普通の経験的意識も、必然性を個別存在の発展法則だと考えています。
そうであれば論理学が規定するカテゴリーとしての必然性は必要なくなります。
必然性という言葉を残すにしても必然性のカテゴリーを規定する論理学は必要なくなります。


個別存在の法則を規定するのは経験科学なんだからそれで十分です。
ヘーゲルは経験科学が言う法則を必然性とイコールで使っているんですが、ここでヘーゲルが言っている必然性とか偶然性とかいうのは論理的なカテゴリーの規定ではないです、全く違います。
カテゴリーの使い方は全部間違っています。哲学的に言えばです。


そのことがヘーゲルの有名な命題によって明らかです。要するにヘーゲル弁証法あるいはヘーゲル論理学は個別存在の相互関係を規定する関係概念です。
だいたい関係概念というのはそういうふうに誰も思ってますが、実はこの関係概念では個別存在の相互関係も厳密に規定することができない、というふうになってきます。


次の一般の漠然とした考え方の批判の部分はもうさらに哲学・論理学とは縁のない経験的意識にある対立の想定の批判です。
だから分かりやすくて面白いです。これは楽しんでいいんですが哲学ではないとうことは分かったうえで楽しめばいいです。


ヘーゲルは理念だとか理想というのは幻想ではなくて無力ではなくて現実的である、理念や理想は現実的でなければならないと言います。
ヘーゲルは真の現実性・現実とは何かを規定するのに真の現実ではない物、ではない現実である、というふうに回り道をしてきています。


真の現実ではない現実と区別するので、どうしても非現実的な空想的な主観的な理念や理想を持ってきて、それが理性的ではなく現実的ではないと言う、あるいは偶然的で空想的でないというのは必然的でないという意味で理性的でないと言う意味でそういうのを持ってきてそういう物は理性的でない非現実的だと言って真の現実を規定していきます。


結局ヘーゲルは真の現実とは何かとは説明しているのではなくて、偶然的なつまらない現実とか、空想的な主観的な現実、あるいは理想を理性とか、を説明してその否定として真の現実を説明しています。


こう分かりやすい経験的な意識の説明をするのは真の現実とは何かを規定できないので、真の現実ではない物の悪口を言って、そうではないんだと言ってるだけのことです。


これはこういう方法はこれからずっとやっていきます。つまりヘーゲルはどうしても規定しなければならない肝心の本質だとか、実体だとか、真理だとか、理性だとかそういう物を規定できていないので、そうではない物を、つまり経験的意識の中にあって誰でも知ってる物をうまく規定して、それを罵倒して、そうではない物が正しいんだと、こういうふうにやっていきます。


哲学・論理学は現実の中の真の現実あるいは実体を内容としてるわけではないので、哲学の対象は客観的世界の全体なので、そこに真の現実とそうでない現実といってこういうヘーゲルがいろいろやってる区別は存在しないということです。


だからヘーゲルは排除している哲学についての間違った考えというのは、論理学の中にはそもそも出てこないんで、こういう作業は本来論理学をちゃんと規定するんだったら必要ないことになります。


ただヘーゲル哲学は世界の全体を規定しようとするんですが、個別存在を前提として個別存在の体系的集合を全体としようとしている。
これができそうなんですが、全体を直接に規定するよりも、個別をきっちり規定して、しかもそれを法則的に規定して、その法則と法則の全体を束ねる系統的な法則を構成していくと、全体にたどり着けそうな気がするんですが、結局はたどり着けない、ということが分かってきます、この後。


その後ゾレンの話も哲学とは関係のない軽い文章です。
気が利いている実際に面白い文章というのは哲学的には常にまったく間違っています。


世界が理性的に実現されれば小賢しいゾレンは存在する余地はなくなると言えますが、しかしゾレンが実現することもあるので、そうなるとゾレンが実現するとなると現実と一致してると称する小賢しいヘーゲルの理性が存在する余地もなくなります。


要するにこれはどうでもいいことです。外面的で一時的な事物や制度や状態にゾレンが向けられる場合には正しいこともありますが、それは部分に対する批判であるので、全体的な正当性はないです。


部分的には誰でも批判することはできます。否定することはできます。実際そうなので上手い言い方をしてますが同様に逆の言い方もできて、部分的には誰でも評価して肯定することもできると言えます。
部分的には否定でも肯定でも批判でも評価でもどうでもできます。どうしてもこの、こういうヘーゲルは不確定なことばかり説明してあっちこっち説明しているのは、ヘーゲルは現実を必然的な物と偶然的な物、重要な物と重要でない物、これは同じですが本質と現象に二重化するのと同じことです。


本質というのは対象の法則である、と考えるので、現象というのは法則から個別の法則から漏れた所の個別現象であると考えます。
こういう関係は本当はないです。この二重化を厳密に規定できなくて、いろいろ規定していくと無理が生じてきます。


むしろ弁証法的な運動に翻弄されていきます、弁証法自体が。
それは個別性を普遍的な形式で規定しようとして実際はできないからです。
だからこの辺に出てくる所の間違いというのは非常に根が深くて、なかなか批判できないし証明もできません。


しかしそれを全体をやらないと論理学は成立しない、ということになるので、予備概念の全体を通じてこういうヘーゲルの説得力のある哲学説を全て批判していきます。
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『宜野座村史第2巻資料編1 移民・開墾・戦争体験』

『宜野座村史第2巻資料編1 移民・開墾・戦争体験』(昭和62年3月30日発行)を読んだ。


フィリピンに移民した沖縄県民が現地人を虐げたり殺したという証言が『北谷町史』にある。戦後沖縄県民は銃殺刑に処された。生き残って帰った人も不幸な目に遭って不遇な死を遂げた人が多いそうだ。
しかしこの『宜野座村史』にはそういう証言はない。フィリピンで苦労して開墾したとか引き揚げしたとか、現地人に財産を奪われて悔しかったとかいう苦労話ばかりで、加害については一切語られない。かろうじて【現地人に「日本人馬鹿野郎、泥棒」と罵らて、その通りだ、最大の被害者はフィリピン人なんだからと思った】というような証言こそあったものの、そのフィリピン人に沖縄県民がどのような加害を加えたかという具体的な証言はない。
また多くの県民が虐待・殺人を犯したあげく銃殺刑に処されたというのだから、そのような強烈な出来事を証言者たちが知らなかったり忘れている可能性は低いと思うが、そういう証言者も出てこない。証言者たちは自分や仲間の罪を隠そうとしてわざと殺人や銃殺刑のことを話さないのではないか。


フィリピンで虐殺や殺人があったのだからフィリピン以外の国でも同じようなことが行われた可能性は否定できない。しかしフィリピン以外のどの証言にも沖縄県民の加害の証言は出てこなかった。「臭いものには蓋」ということなのだろうか。


261ページのフィリピンに移民した県民の日記に【土人を使い、屋敷の整理。】という一文がある。この日記には「土人」という言葉が頻出する。当時の沖縄県民がフィリピン人を低く見ていたことが伺える。


徴兵されて中国に出征した沖縄県民の証言もあったが、不思議なことに戦場で戦った証言が出てこない。証言者は人を殺したか、仲間が人を殺す所を見たのかもしれない。それで庇うために(あるいは辛い記憶が蘇るのを避けるために)戦闘の様子を語らなかったのかもしれない。更にこの証言者は移動して「南京に着いた」と書いてある。そして南京からまた何処何処へ行って、何処何処からまた何処何処へ行って、目的地に着いた、その間2年経った、と証言している。なぜ証言者はこの2年間をこうも端折ったのか。その2年の間に一体何があったのだろうか。何らかの虐殺行為に加担していたからこういうふうに端折らざるを得なかったのだろうか。
このように沖縄戦の証言者ははっきり加害を語らないので行間を読んであれこれ想像を働かせる必要がある。


612ページには変わった証言があった。
宜野座野戦病院で米兵が看護婦に「チンポ食べるか」と言ってバケツを見せた。バケツの中には一杯の男性器が入っていたそうだ。米軍による人体実験なのか、何なのか、真相は不明だと書いてあった。もしかするとこのバケツの中に罪のない朝鮮人軍夫の男性器も入っていたかもしれない。

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図書館でのトラブル

図書館でゴーゴリ全集を借りたら派手に破られていたことがあった。借りる際に職員がチェックをするのだがたまにチェックから漏れることがある。で返却する際のチェックで発覚して自分が破ったのだと疑われてしまった。どんなに「自分ではない」と説明しても納得して貰えず、他の利用客から非難めいたことも言われ、ずいぶん面倒な思いをした。それ以来図書館の本に「破れ」「シミ」「書き込み」などがある際はどんなに微小でも付箋を貼って返却する際に報告するようにしている。これは図書館を利用する人ならやったほうがいい。下手をすれば弁償させられるので。特に高価な全集や学術書などを借りる人はやるべき。
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慰安婦関連歴史資料

これは凄いです。
慰安婦関連歴史資料
http://www.awf.or.jp/6/document.html


それからこれ。
https://act.greenpeace.org/page/16936/petition/1?utm_campaign=Energy&utm_source=twitter&utm_medium=post&utm_term=EN_TW_thankyoupage
できればお願いします。


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007知の楽しみ その1 『小論理学』 第七回 序論 第四、五節【書き起こし】

007知の楽しみ その1 『小論理学』 第七回 序論 第四、五節




第四、五節

第四節
1.哲学はまず、哲学には哲学特有の認識方法が必要であることを証明せねばならない。

2.宗教的表象との相違が前面にあらわれる場合には、哲学は宗教のそれとは異っている自己の諸規定の正しさを証明せねばならない。

第五節
1.われわれの意識の真の内容は、思想や概念の形式に翻訳されてはじめて本来の姿を写し出される。

事物や出来事、さらに感情や直観や意見や表象やの真理を知るには思惟が必要である。

思惟はあらゆる場合に少くとも、感情や表象、等々を思想に変えるものである。

2.哲学は思惟形式による対象認識である。人間は生まれながらにして思惟の能力を持っている。したがって、誰でも苦心して哲学を勉強したことのない人々さえ、哲学がどういうものであるかを生まれながらにして理解していると考える。

あるいは宗教的感情をよりどころとして、哲学したり哲学を批判したりする能力があるというような口をきいたりする。これはよくない。








今日は第七回で第四、五節の二つをやります。第四、五節はこれまでの繰り返しで簡単なんですが、簡単だけれどもヘーゲルが繰り返し説明していることから見ても、理論としては重要です。

序論の最初のこの辺はごくごく当たり前の哲学でも理論的でもない内容を展開しているんですが、ヘーゲル哲学はこれを基礎にして複雑な理論体系を構成して行くので、ここを厳密に批判的に読むのが非常に重要です。

ヘーゲル哲学を超えるには簡単に見える基礎的な理論をも厳密に批判してこれを基礎にして展開されて行く理論体系の全ての段階の全ての思惟規定を超えて、そして新しい理論を作り出して行かねばならないんですが、基礎的な理論部分の批判ができないと体系の全ての批判は全くできなくなります。

ヘーゲルはここで哲学には特有の認識方法が必要であることを強調しています。ヘーゲルは哲学の対象は個別存在の全体の体系的展開の基礎となる概念、つまり論理学であると考えているので、体型的展開のための思惟方法が哲学の内容になります。

ヘーゲル哲学の対象は経験科学と同じ個別存在なので全体かどうかが違うだけですから認識方法は経験科学の方法と同じになります。一般的に言うと思惟的認識方法はまず対象の研究が具体から抽象へと下向して、次に対象認識において再構築する場合は抽象から具体の上向の形式を採ります。

もう一つ宗教との関係でも思惟のことを説明していますがヘーゲル哲学の対象は思惟なんだけれども、真理としての思惟であると想定しています。そして宗教も同じ真理を対象としてると想定して宗教の表象的な認識と哲学の思惟的認識の方法を対比しています。

対象は同じ真理なので方法が違うということです。宗教は神の像だとか絵画とか建築物だとかがあって表象的意識が多く使われるんですが神学もあるので思惟も使われます。だから宗教が表象的で哲学が思惟的で対象は同じ真理であるというこういう説明は大雑把で当たらないです。

ヘーゲルは哲学と宗教は同じ真理を対象としていると言うんですが、こういうのはヘーゲルが哲学と宗教の対象、つまり内容が何であるかを理解していないからです。哲学と宗教は対象つまり内容が全く違います。哲学の対象・内容は客観的世界の全体です。

宗教の対象は社会関係、あるいはそれを反映した社会的精神です。神とか宗教の内容は哲学と同じように個別存在を超えるその対立物である絶対者・無限者と想定されています。それで哲学と同じように扱われることがあるんですが実際は宗教の内容は絶対者・無限者・全体ではなくて個別事象です。

哲学や宗教の内容が個別存在の対立物である絶対者・無限者と言われる、そのことがどういう意味を持つかについては後で詳しく説明します。

宗教の対象が絶対者・無限者とかいうそういう全体者ではなくて、アフリカにはアフリカの神があって、東洋には東洋の神があって、ギリシャにはギリシャの神があって、中世には中世、現代には現代の神があって、それぞれの時代だとか民族性を反映した内容を持ってて、それぞれが違います。

つまり個別的ということになります。全ての宗教はその時代の社会関係において特有の内容を持っています。無限者ではないです。つまり宗教あるいは神の内容は社会法則で特有の社会関係を内容としています。

だから宗教も哲学も真理だとか無限者を内容としているのではないです。なぜ真理だとか無限者を想定するのか、それにどんな問題があるのかは後にやります。

真理だとか無限者とか言うのは個別存在の対立物として経験的意識が想定している無規定の空虚な抽象物なんですが、それにしても長い何千年もやってるので色んな特徴があることはあります。それは後の課題です。

次に第五節ですが。ここは意識の二重化の話です。思惟の特徴を二重化によって説明しています。
表象的意識の背後に真の内容があってそれは思惟や概念である。感情や直観や意識や表象の真理が思惟である。

個別存在の背後に実体あるいは本質を想定する経験的意識です。
これは普通にあることで現実にあるそこにある対象を見たままで、それを何であるか考えるのではなくて、じっくり考えてそれが何であるかを深く考えようというふうに考えます、どうしても。

その深く考えるのが思惟であるというふうに考えます。そういうことではないですがそういうふうに経験的な意識はだいたい考えます。ヘーゲルもそう考えてるということです。

ところが個別存在を対象とする認識の深化というのは表象であっても思惟規定であっても無限進行になります。だから実体や真理に到達することはないです。個別存在の背後の真理が存在しないということになります。

これはカントの二律背反で、つまりは経験的意識の内部で説明することもできますが、論理学が進行するにつれて全くカントの方法とは違った方法で説明することはできます。当面はカントの考えた無限進行で批判しても十分です。

思惟が感情や表象等々を思想に変えるというのはこれはないです。思惟は客観的世界の対象を認識するのであって感情や表象を認識するのではない。これは前に言ったことです。ヘーゲル哲学のこうした間違いというのは全て個別存在の背後に実体あるいは真理を想定する経験的意識からきます。

不思議なものですが経験的意識によっても個別存在というのはどうも認識できないものであるというのが感覚的に分かっています。それで深い認識を求める哲学というのは個別存在の背後に実体や本質を想定するんですが、実はこれもやはり対象認識ができないことになっていきます。

これが経験的意識の限界内で生まれる哲学だとか論理学の悩みです。これまでの理論展開をまとめると意識形式には表象と思惟の二つの形式があるということです。そしてこの二つの形式で客観的世界を認識します。そして意識の内容は客観的世界における対象です。

客観的世界には二種類の対象があります。二つというのは個別存在と客観的世界の全体です。こういうことではなくなって行くんですが当面は個別存在と全体の対立が認識対象となると考えてもいいです。

個別存在を対象とするのは経験科学で全体を対象にするのが論理学です。こういうふうに理解してても厳密には変わって行きますがそれは理解できます、いずれ。

ヘーゲルの哲学では認識対象は一つです。経験的な意識は個別存在を浅く、あるいは個別に認識して、哲学的意識は個別存在を深く、あるいは実体に至るまで認識したうえで全体を体系的に認識する、となります。経験科学は対象の法則を示しても全体の法則体系を示すことはないです。

と、このまとめを暗記したからといって哲学を理解できる訳じゃないんですが、一応頭の整理として言っておきます。このまとめの中には真の内容、本来の内容は含まれないので、これは無意味な言葉です。「真の」とか「本来の」というのは無規定です。あるいは未規定のまだ規定されてない想定物です。

客観的世界の全体の認識である論理学が規定されるとこうした曖昧で無意味な言い方は経験科学においても論理学においても必要なくなります。五節の二番目の文章はヘーゲルが非常にうまいところで通俗的には面白くてなかなかいいんですが、結局厳密に見るとやはり間違いで、それは哲学と思惟を同一視することからくる間違いです。

哲学は思惟である。人間は生まれながらに思惟の能力を持っている、こう言うと哲学を勉強したことのない人でも思惟は持つんだから哲学的認識ができると思う、あるいは哲学の対象は真理だとすると同じ真理を対象とするから宗教的感情を拠り所として哲学したり、哲学を批判したりする能力があるという口をきいたりする。

こういうふうにヘーゲルは批判していますが、これはそういう特徴もあるんですが、哲学と宗教の内容を間違って理解しているヘーゲルにそう思われるだけで、実際はこの両方とも間違いです。

経験科学は思惟的認識です。しかし人間は生まれながらに思惟の能力を持つからといって勉強しなくても経験科学を理解できるとは誰も思ってないです。特有の専門知識が必要であるということは、研究が必要であるということは誰でも知っています。ところが哲学だけは研究せずに論ずることができると思われています。

物理学は相当歳を重ねないと理解できないけど哲学は子供でも分かるとか思われる。それは哲学は思惟規定だからではなくて哲学は経験科学と違って内容が何であるかはっきりしないからです。内容が何か分からないので何を言っても哲学であると言えます。

適当な内容が哲学と称されるので研究しなくても哲学を論ずることができます。ところが哲学の対象が客観的世界の全体である、そしてそれを規定するのは論理学である、つまり哲学は論理学である、となると哲学・論理学には専門的な知識が必要だと誰でも思います。

だから論理学の内容がはっきりすると経験科学と同じように哲学は研究されるようになります。俺には俺の哲学があると言うようなことは言えなくなります。それは俺には俺の物理学があると言えないのと同じです。

こういう事情があるので哲学は結局は論理学であるというこういう結論は普通には受け入れられないです。哲学は論理学であるとなると哲学を気楽に論じることはできなくなるのでそれを受け入れられないことになります。


宗教的感情を拠り所として哲学したり哲学を批判したりする能力があるというようなことを口をきいたりすることになるのは、これは哲学の内容は真理だとされているからです。これはヘーゲルもそう考えているのでヘーゲルの考え方も原因でこんなつまらんことが起こります。

真理の正体は分からないので哲学と宗教の内容は真理であると言ったって、そうなると何か正体が分からないんだから個別存在、あるいは事象についてのあらゆる思惟が哲学だとか真理だとか言われるようになります。

「私の人生哲学」だとか「仕事の哲学」だとか。ある対象の内容の深い内容が哲学であると言われるようになるんですが、そして何にでも使えるんですが、ところが真理というのは未規定な不明なものであるので、別に深い内容である必要はなくてどんな浅い内容であってもやはり哲学と言われます。

こういう問題は哲学は論理学であって論理学の対象は客観的世界の全体であるとして、そして論理学の内容を規定すると、全て解消されます。解消ができないと何でもかんでも哲学となっていきます。


次に靴の比喩も有名なんですがこれもやはり適切ではないです。靴を作るのは難しいにしても靴も足も仕事にかかる前に知られています。実例がちゃんとあります。しかし哲学とは何かは哲学の仕事にかかる前に知られているのではないです。哲学とは何かを明らかにすることが哲学の主な仕事です。

哲学研究の後でーー個人の研究という意味ではなくてーー人類が哲学研究を永遠と何千年もやった後で、初めて哲学とは何かが分かります。哲学とは何かを研究するのが哲学です。これは哲学だけの不思議な特徴です。

靴は靴を作り上げて初めて靴とは何かが分かるのではないです。ヘーゲルが哲学の対象であるとする実体、あるいは物自体はカント哲学では認識できないとされています。つまり哲学の認識対象はそれは認識できるかどうか、それが認識対象であるかどうか問題になっています。

ドイツ古典哲学に至ってこの基本的の最も高度の哲学問題に到達していきます。本当はここで真理が対象であるとは言えない段階になってるんですが、その真理が対象とは言えないとはどういうことかと言うと、個別存在を対象にしてその実体が真理であるとは言えない、物自体を認識できないんだというカントの主張でそこに到達していることになります。

ヘーゲルは苦労してそれに対立して認識できるんだという理論を弁証法で展開してるわけです。ヘーゲルの例え話が分かりやすくて気が利いているように見えるんですが、実は哲学の内容を反映していないので哲学を厳密に考えると実は分かりにくいです。

例え話自体は面白いのですがそれは経験的意識として面白いということです。ヘーゲル自身もその哲学の非常に複雑な内容が出てきてその内容を規定できないと例え話を使います。それはヘーゲルが哲学を経験的意識において理解しているからで、例え話で説明できるような内容になっているからです。

だからいつでも例え話というのは非常に上手いんですが、その中には哲学についての的確な内容は含まれていません。それを楽しむのはいいんですが、それが哲学的内容であるとは思わないように、そう読む必要があります。

難しいのは哲学の対象・内容が客観的世界の全体であるということはもう概ね哲学者には理解されています。昔から、タレスの時代からそうなんですが、ところが全体をどのように規定するのかが明らかでない場合は全体が対象であるとすることはできない。

認識できないもの、あるいは規定できないものを対象にできないからです。だから哲学の対象・内容とは何かというのは論理学が規定されて初めて客観的世界の全体である、というふうに規定できるようになります。

ヘーゲルはこの辺で扱ってる派生的な問題は全て哲学の対象つまり内容を明らかにすることによって解消できます。それができないとあらゆる馬鹿馬鹿しい議論や非難が生じます。

それに対して結局有効な反論は不可能です。論理学を描く以外の方法はありません。ちょっと気の利いた洒落た議論くらいはできるんですが、哲学的には結局間違いか無内容です。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
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006知の楽しみ その1 『小論理学』 第六回 序論 第三節後半 【書き起こし】




006知の楽しみ その1 『小論理学』 第六回 序論 第三節後半

今日は第六回で第三節の後半です。ここでヘーゲルは哲学は表象を思想やカテゴリーに、正確に言えば概念に変えるものであると言いますが、そんなことはないです。
表象と思惟というのは対象認識の違った方法です。さらに思惟一般あるいは思想一般とカテゴリーは全く違います。経験科学の思惟と哲学の思惟の対象は内容が違うので深さではなくて思惟規定の内容が全く違ってきます。
ここでもうヘーゲルは意識の内容は思惟であるということを強調してるんですが、これは経験的意識の特徴です。経験科学の方法を一般化しています。経験科学というのは個別対象の発展法則を示すんですが、その前に一般的な思惟規定と言うのは対象の普遍を示します。その系列が法則になります。

馬は哺乳類である、と規定しますが、この哺乳類、述語である哺乳類が主語になって、哺乳類は動物であると言います。で次は動物は生物である、生物は有機物である、有機物は物質であるというふうに規定されて行きます。
こうして次々に述語が主語になって更なる普遍を規定して行くと馬の最も普遍的な規定は物質であるとなって、これを直接繋げると馬は物質であると規定できます。これはこういうふうに言えます。抽象的に言ってるだけで。こうして深く抽象的になって単純になって行くんですが、唯物論ではこれが最終的な普遍の規定になります。
さらに物質が主語になると述語は物質は存在する、有る、となります。この有る、有というのは何物かが有るということを意味していて、その何物かの諸規定、属性というのを全部排除しています。これがヘーゲル論理学の始元となる純粋有です。これは経験的意識による論理学の始元です。本当の論理学はこういう有ではありません。
ヘーゲルは表象的意識の内容を思惟が規定してその思惟規定をさらに深めて抽象化して普遍化して行くと論理学に到達するという哲学構造を作り上げていますが、簡単に言うと哲学というのは思惟の活動で、思惟の活動というのは表象から思想に進化して、思想の内容をさらに概念に変える、概念というのは究極的には論理学であるということになります。

ここで大事なことは哲学は表象を思想やカテゴリー、あるいは概念に変えるものということの、この表象というのは個別存在、事象を意味しています。事象というのは社会現象のことを言います。だから個別存在を深く認識して行って、最も深い最も抽象的な有までにたどり着いて、それを基礎にして体系化すると客観的世界の全体の認識になるという意味です。この場合は論理学のカテゴリーの内容は経験的な意識になります。要するに個別存在を認める、あるいは個別存在を認識対象とすると、それを否定しようがどうしようが結局は経験的意識の限界内にあります。論理学には届きません。

このあとヘーゲルは表象と思惟の関係についていろいろ書いていますが、表象と思惟の関係は、対象との関係でのみ問題にすることができます。表象と思惟の直接的関係を論じるのは無意味です。内容が抜けているので。これは芸術論なんかにおいては非常に大きな問題になってきます。

次にヘーゲルは哲学が分かりにくいのは純粋な思惟の内で動くことの出来ないからであると言います。これは言いたいことは分かるし部分的には正しいんですが、こういう前に純粋な思想とは何かが問題になります。ヘーゲルは個別存在の表象的認識とその内容の抽象的規定の違いが哲学の分かりにくさであると考えていますが、実際はそうではなくて、哲学の諸規定は個別存在の諸規定を抽象化したものではないので、こういう区別は成り立ちません。だからこういう難しさというのは本来ないものです。ヘーゲルの言う純粋抽象というのはヘーゲルのカテゴリーなんですが、このヘーゲルのカテゴリーは個別存在の普遍の規定の最高度の抽象化です。だから実際はこの抽象化は分かりにくいものではないです。非常に分かりやすいので表象と同じように見られるということです。たとえば水の温度は百度を超えると水蒸気になる。この現象を見て水の温度を量と考えて、水と水蒸気を質と考えて、水の温度が高くなると水蒸気になる、という誰でも知ってる現象を量的変化に伴う質的変化と抽象化して規定しても別に思想的内容は何ら深まることはないです。経験的意識が見たままを抽象的に言い換えただけなので分かりにくいはずはないです。量から質への変化の法則というのは分かりにくくない当たり前のことを言っています。当たり前のことを言ってるのでなぜそんなことを言うのかそこに意味があるのかという意味で分かりにくいですが、何を言っているかは簡単なもんです。論理学は経験的意識とは違うので経験的意識が見たままを論理化する、あるいは抽象化する、ではないので、経験的意識は逆に量から質への転化はあり得ないということになって来ます。

こういうふうに個別存在の普遍の規定をどれほど抽象化してもカテゴリーの論理的規定にはなりません。水と水蒸気を見てせいぜい量から質への法則というだけなので、これは論理規定とは関係ないです。それで論理規定になっていないものを論理規定であるかのように展開しているのでヘーゲルの論理学は非常に分かりにくくなります。ヘーゲル論理学が分かりにくい主な原因は哲学の対象、内容を客観的世界に発見していないために純粋な思惟が思想が成立していないことです。

経験的意識というのは個別存在を対象にして内容としています。個別存在の思惟規定をいくら抽象化しても普遍化しても内容は個別存在です。純化しても同じです。具体化すると個別存在の諸規定になって行きます。論理学が分かりにくいのは人々が純粋な思想のうちで動くことに慣れていないからなんですが、慣れていないのは純粋な思想が形成されていないからです。慣れようがない。知らないんだから。形成されれば慣ることができます。そして形成するためには論理学の対象を客観的世界のうちに個別存在とは違う全く違った全体として発見して規定しなければならない。客観的世界の全体というのは全体として個別存在を無視し個別存在の前提として先立つものとしてアプリオリに規定して行きます。
最初に言いましたが、客観的世界は経験的意識の対象と哲学的意識意識の対象の二つに分けられます。この対象の違いを理解すると混乱のしようがないです。意識の内部で区別しようとすると内容の混乱が起こります。混乱を避ける方法というのは学問の内容を客観的世界における対象として明確に区別することです。それが全体である、ということです。

哲学が分かりにくい第一の理由は哲学が哲学の対象を個別存在、あるいはその実体と考えるからです。この実体と個別存在の区別はできないか、あるいは無いものの想定になります。カントがこれを否定したんですがヘーゲルはこの対象を復活させてしまって、論理学を構成したんですが、それを個別存在の諸規定の最も抽象的なものとしてしまった点では論理学から遠ざかっています。

哲学・論理学を理解するための鍵は経験科学の対象は個別存在・事象であって、哲学・論理学の対象は客観的世界の全体であることを理解することです。
ただしこう言っても実は理解するのは全く不可能です。というのは客観的世界の全体をどのように認識するのかが分からなければ対象は見つからないからです。これは説明して行きます。

ヘーゲルは経験的意識と哲学的意識の関係を表象と思惟の関係に歪めているので混乱が起こりますから、混乱を起こしているのはヘーゲルです。
ヘーゲルの純粋抽象というのは個別存在の諸規定の抽象です。この場合表象と純粋思惟の内容は同じです。だから抽象的規定の具体的内容として存在の諸規定あるいは対象を思い浮かべるのが当然です。これはヘーゲル哲学・論理学の内容が個別存在を離れていないために起こることで、混乱とは言えない当然の正しい認識です。
ヘーゲル論理学の内容は経験的意識なので経験的意識の表象を思い浮かべて、その論理展開の内容を実例で理解しやすい。解説書も弁証法の内容を多く実例を挙げて説明しています。論理学の内容も同じです。ヘーゲルが実例を非常にうまく使っています。実例をうまく使えるのは論理学が純化していないからです。個別存在から離れていないからで、ヘーゲルが実例をうまく使っている所ではそれは経験的意識なんだから説得力を持つのでヘーゲルをそこで理解したと思います。あるいはさらには論理学を理解したと思うのですがそれは間違いです。ヘーゲルは実例を非常にうまく使ってる所は経験的意識なので論理的ではないです。
論理学の内容であるカテゴリーの内容が規定されると、客観的世界全体についての表象も生まれます。その表象は論理学を理解する妨げにならない。しかし今のところどんな表象が生まれるのかは分からないです。論理学は生まれてないから論理学と同じ内容を持つ表象はまだ生まれようがない、ということになります。

次に挙げられる哲学の難しさというのは、哲学的概念が内容を失ったように思われると。抽象化することで、これは概念が純化する時に実際に内容を失っているからです。ヘーゲルの概念は。つまり抽象が違っています。
タマネギの皮を剥ぐように諸規定を剥ぎ取って行くと結果として空虚な抽象物が生まれて、思惟規定によっても表象によっても認識できない内容が生まれます。つまり無内容になります。ヘーゲルが物自体をそういうふうに批判してるんですが実体というのはつねにそういうものです。だから認識できない、とするのが正しい。
論理学の内容を規定できていると概念は内容を失ったように思われることはないです。タマネギの皮を剥ぎ取るように個別存在の諸規定を剥ぎ取って行くと個別存在そのものになる。馬の諸規定を剥ぎ取って行くと馬そのものになる。リンゴの諸規定を剥ぎ取って行くとリンゴそのものになる。と言うと、リンゴそのものとは何か、さっぱり分からないです。リンゴでなくなるので。そうなるのは抽象の仕方を間違っているからです。個別存在の諸規定を剥ぎ取って行くなどということは理論的にあり得ないことが論理学をやっていると分かってきます。
論理学の場合は対象ははっきりしているし、概念が内容を失うことは、有にしてもちゃんと内容規定ができますから、全ては明確な規定になります。それで表象と間違うというような混乱は起こりません。だからと言って簡単というわけではないんですが、今日はこれまでです。
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「知の楽しみ」書き起こしまとめ

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知の楽しみ 第五回、第三節【書き起こし】




論理学入門 第五回、第三節-1

今日は第五回で、第三節の第一段落です。

001われわれの意識をみたしている内容は、それがどのようなものであるにせよ、感情や直観や表象の、目的や義務の、および思想や概念の規定性をなしている。このかぎりにおいて感情、直観、表象、等々はこの内容の諸形式であって、この内容は、それが感じられようと、直観されようと、表象されようと、欲求されようと、あるいは単に感じられようと、思想をまじえて感じられ直観されようと、あるいは全く純粋に思惟されようと、あくまで同一のものである。内容はこれらの形式のどれか一つのうちで、あるいはいくつかの混合したもののうちで、意識の対象をなしている。しかしこのような対象性のうちで、これら特定の諸形式はまた内容に結びついてもいる。その結果これら諸形式の各々にしたがって特殊な対象が生じるように見え、本来同じ内容であるものが、さまざまの内容であるようにみえるのである。

第一段落の内容は、三つである。
① 意識の内容は規定性である。
② 感情、直観、表象等々は内容の形式である。
③ 形式が内容であるように見える意識の混乱がある。
 
これはこれまでの思惟についてより明確に規定したもので分かりやすい。ただしすべて間違いである。
ヘーゲルは意識の、思惟の内容は規定性である、というが、思惟は内容を規定性によって表現するのであって、規定性は内容ではない。対象を規定性によって認識するのは対象認識の方法であって内容ではない。
ヘーゲルは第二文で、感情、直観、表象等々は形式で思惟が内容である、としている。
そうではない。思惟は対象を思惟規定という方法で認識する。感情、直観、知覚等々は表象的方法によって対象を認識する。
意識の内容とは対象である。思惟でも表象でも、意識の内容は対象である。したがって、対象が同じであれば思惟でも表象でも内容は同じである。思惟が内容で表象が形式だから内容が同じなのではない。
 
こういう妙な事がおこるのは哲学の特長である。経験科学では意識の内容は客観的世界における対象であることははっきりしている。ヘーゲル哲学では経験科学も哲学も最初の対象は同じである。認識が深まると経験科学と哲学の違いが顕れる。

ヘーゲル哲学は個別存在の認識を出発点として、そのあと哲学の対象は個別存在の背後の実体、真理へと移行ないし深まって、さらに、両者の統一によって全体を構成することになる。
ヘーゲルが考える真理とは、まずは全体を体系的に認識するための思惟的方法の基礎、つまり、抽象から具体へと上向するための絶対抽象が発見されるべき真理であり、それが論理学である。それは、経験的意識を抽象化したものであり、それが経験的意識の全体の体系化の基礎になる。したがって、その構造の結果として、思惟規定の内容はすべて経験的意識である。だから、経験的意識とまったく違った思惟規定は論理学のなかにも顕れない。経験的意識の抽象化である。経験的意識と違った新しい内容の思惟規定が出て来ない。

ただしくは、哲学は個別存在を経由することなく、直接に客観的世界の全体を対象とする、である。哲学では個別存在は無視する。哲学をやっていくと個別存在は認識対象ではない、認識できないものである、となる。

哲学の難しさはこういうものである。経験科学では研究が深くなるにつれて規定の正しさが問題になり議論が起こる。研究の必要が生じる。経験科学では、研究対象が馬であるか鶏であるかは問題にならない。馬が表象としてあるいは単純な思惟規定としてどういうものであるかは分かっている。馬でも鶏でも最初の認識は研究するまでもない当たり前の認識である。認識が深まっていくと、研究の後で複雑な問題が生じる。
ところが、哲学では認識の初めがもっとも難しい問題で、何を対象とするかの分岐点で哲学の内容は決まる。カントとヘーゲルの対立の意義は哲学の認識対象という基本問題に到達していることである。個別存在の背後に想定されている実体が哲学の認識対象であるのかどうか、認識できるのか、そんなものがあるのかどうか、が哲学の独自の問題である。経験的意識はあると考える。しかし、哲学では、ない、となる。そして更に個別存在は認識対象として存在しない、個別存在の規定はできないことになる。
哲学の難しさは、複雑なややこしい、分かりにくい問題を解く事ではない。経験的意識からは当然と見えることに哲学の基本的な根本的な問題が含まれている。哲学は経験的意識のすべてを覆すので、どんな単純なことでもすべて否定していく。それを理解するのが難しい。そして、哲学史は様々の哲学的課題を研究しながら、その成果として、哲学の対象=内容とは何かの問題に到達する。それがドイツ古典哲学であり、カントとヘーゲルの対立である。

で、表象と思惟規定の関係のこの単純な問題を片づけておかねばならないが、馬を表象で認識すると表象の内容は馬である。対象という意味である。馬を思惟によって認識しても思惟規定の内容は馬である。馬の思惟規定は馬の内容規定である。馬の表象の規定ではない。思惟は表象の内容を規定するのではなく、客観的世界の対象の内容を規定する。対象を規定する。
意識の内容とは客観的世界における意識の対象である。対象を発見できないときに思惟規定が意識の内容である、と想定される。すると、表象が形式である、と想定される。だから哲学の対象の想定にもとづいて、ヘーゲルは思惟と表象の関係を規定している。表象と思惟の関係の規定が基礎になって、それから哲学の対象は何かに向かっているのではない。ヘーゲルは哲学の対象は思惟規定である、真理は思惟法則である、と考えて、その結果、哲学的認識の初歩的な問題である表象と思惟の関係に二重性を作り上げている。
したがって、間違った前提からきたところの表象と思惟の関係なのでこれはすでに間違っている。わかりやすい結果になるが、思惟規定の内容とは何か、思惟規定は何を内容としているのかを問うと、その答えは表象である、となる。馬についての細目の思惟規定があるとして、これが何を規定しているのか、となると、これは馬の規定である、となる。
馬を対象とする思惟規定の内容は馬の表象である、となって、馬の表象が先にあると、馬の思惟規定が内容規定になる。表象的に見える馬とはどういうものかを思惟規定によって詳しく規定していく。
意識内部で内容を規定しようとするとこうして相互に内容となり、内容を規定できていないことがわかる。あるいは両方が同等の内容であることがわかる。客観的世界における対象が内容として前提されていないとこういう循環論になる。
 
表象による認識が形式である、というのは無茶である。馬を表象的に認識すると、それは馬の形式にすぎない、と言えるものではない。
表象も思惟も客観的世界の何かを認識している。同じ対象を認識しているなら、意識の形式に関わらず内容は同じである。馬の思惟規定と牛の表象は違う。しかし、馬の思惟規定と馬の表象は内容は同じである。対象が同じであるから。内容とは対象である。

個別存在を対象にする経験的意識においては、表象も思惟も客観的世界の対象を内容としていることははっきりしている。これはわかりやすい。ところが、経験科学と違って、哲学ではこれこそが基本問題である。ヘーゲルは哲学の対象とは何かに直接応えずに、思惟と表象の関係を論ずる事で哲学の対象が思惟であることに持っていこうとしている。
哲学の対象=内容も正しくは客観的世界にある。実際にある。経験科学の対象は個別存在、事象である。実はこの対象はないことになる。経験科学と違う哲学の対象を客観的世界に発見すると、個別存在、事象以外のものである。つまり、残るのは客観的世界の全体である。

ヘーゲルも哲学の認識対象=内容が世界の全体であることは分かっている。分かっていないのは全体とは何かである。だから、客観的世界の認識のもっとも単純な思惟規定が純粋有で、その抽象的な展開が論理学で、さらに、自然哲学、神哲学へと発展し、その全体が体系化されることによって客観的世界の全体が認識される、と考えている。それで経験科学と同じように個別存在が哲学の認識対象になる。個別存在を認識対象として、それを深く広く認識していって、全体を抽象から具体への上向の体系によって認識すれば全体が成立すると考えている。
問題はここで、この方法では全体の認識にならない。このことの証明が難しい。それを部分的にやったのがカントの二律背反である。そして、個別存在の体系的集合では全体にならないことを証明して、次に、客観的世界の認識はどのように成立するのか、直接的に認識できるとして、なぜそういうことが起こるのか、どうするのか、が問題になり、これはカントもヘーゲルもまったく規定できていない。それが、実は純粋学である論理学である。それは経験科学も含めて経験的意識が作り出す思惟規定とはまったく違った内容になってくる。


哲学は初めから哲学とは何かを規定する場合に、世界の全体を規定する学問で、哲学の祖と言われるタレスの命題は「万物の起源は水である。」という。これを哲学の祖としたのはアリストテレスであるが、これは客観的世界の全体を規定する命題で、この命題の世界の全体は万物、物質の全て、である。ヘーゲルの場合はこの全体を精神が支配することになって精神も含まれる。だから、全体とは個別存在とそれを反映する精神と、その両者の実体の体系的全体、となる。ようするに精神と物質の全体ということになるのでタレスの命題からあまり深化していないことになる。
要するに、ヘーゲルが考える客観的世界の全体は、個別存在の体系的総体である。全体というのは個別を出発点とし個別の全部であることになる。哲学史は個別存在を前提してその集合的全体を世界の全体として規定しようとしてきたが、その規定が高度に発展してくると、それはどうしてもできないことがわかってくる。それを示したのがカントの二律背反である。カントが言いたいのは、個別存在の総体は成立しないことである。カントはこれをうまく証明できていないし、どうして規定できなくて全体はどのように規定するのかも明らかにしていない。だから、カントの弱点に反応してヘーゲルの反論が成立している。

ヘーゲルは弁証法によって「万物」の合法則的な体系化を構成し、その法則の展開が世界の全体の認識になる、としている。だから、これを越えるには弁証法によってすべて繋いでも全体にならないことを証明して、弁証法でない方法によって全体を規定することになる。
 
三番目にヘーゲルは、思惟規定と表象が結びついて混乱を引き起こすと言うが、それは違う、逆である。対象認識は常にこの二つの方法の一致によって確認される。ヘーゲルは二つをまちがった形で規定しているので混乱が起こるとしているが、そうではない。
例えば重力波は理論的に、思惟規定によって発見された。それが真実であるかどうかは表象的に確認される。何らかの現象によって表象的に重力波があると認識された時に、重力波は現実的な対象として存在すると確認される。たんなる思惟規定、あるいは理論ではないことになる。
表象的に認識された内容が思惟的認識によって確認され証明される場合もある。刀鍛冶は温度を表象的に認識して鉄を鍛える。その認識を工業的に応用するには、その表象的認識の内容を定量化して規定する。
表象と思惟の対象が同じであれば内容は同じであるが、両者は対象のとらえ方が違うから、違う内容に見えることもある。その時は両者の認識を深めて一致を求めねばならない。思惟と表象の一致によって対象認識は真理である、とされる。
 
また、ついでの話であるが、人間の意識は、思惟的認識が深まれば表象的認識も深まる。表象的認識が深まる思惟的認識も深まる。深い感情なしに深い思惟規定は生まれない。深い思想なしに深い感情も生まれない。深い表象的認識に深い思惟規定が対応する。個人あるいは時代によって、また対象によって、表象的認識と思惟的認識の得意不得意の違いはあるが、内容は同じで、人類の歴史としては長期的には両者は一致して深化する。
 
表象と思惟には特有の長所と弱点がある。表象は個別対象という限界内においてを全体的に認識し、思惟は分割規定によって認識する。どちらが深いとか分かりやすいとは言えない。方法の違いで、どっちがどうとも言えないので両方を会わせる必要が生じる。
例えば、馬を見た事も聞いた事もない人に馬とはどんな動物であるかを思惟規定と表象の二つの方法で教えることができる。
思惟規定によって馬とは何かを伝えるとすると、例えば、馬の特長を規定した全集十巻を与えてこれを読めばいいことになる。そこには、馬は四本足で目がぱっちりで面長で尻尾がある、とかの学問的説明がある。それを読んで馬をいろいろと認識できる。
しかし、思惟規定による説明には限界がある。馬は面長で首も長い、というと、カバと麒麟を見た事がある人は、麒麟の首の上にカバの頭があると想像するかもしれない。足も四本だといってもトカゲも鰐もそうなのでこれだけではどうもはっきりしない。

そんな場合は、馬の写真か絵を見せる。これは馬の表象的認識である。すると、こんな動物か、ロバの大きい奴だな、とか、シマウマの縞を抜いたやつだな、というふうに一瞬で分かる。だから、百科全書などには文章と、思惟規定と、絵の両方が入っている。徹夜して馬学全集を読むとよく分かるかと言うと、表象的に写真で知るのも早分かりでいい。このことから表象が形式で思惟規定が内容であるとは言えないことがわかる。

こういった問題も、思惟規定とは何かを規定すれば解決できる。しかし、これは非常に難しい。これまでの説明は、これからしばらくこれを続けるが、思惟規定とは何かを検討していなくて、思惟規定とは何かを経験的意識のレベルで規定してそれを使って説明している。
思惟規定とは何かは、非常に難しくて長い説明が必要で、この話とはまた別次元の話になる。経験的にあるいはヘーゲルが使っている意味での思惟規定は論理学の中では使えない。経験的な意味でも、思惟規定はここでヘーゲルが想定しているようなものではない。
次回の第二段落も同じような内容である。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
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礼儀

今朝の『おはよう日本』で駄菓子屋のお婆さんが子供を叱る様子を放送していた。子供がお金を払うときにお婆さんに投げてよこしたので「そんな叩きつけるようにしちゃダメじゃない! お婆さん、叩かれたような気分になったよ!」と叱り、カメラに向かって「子供にちゃんと教育しないとダメじゃないですか」と言っていた。これはレベルの低い教育だと思う。こういうふうにせせこましく礼儀を守っていたら精神は礼儀に縛られて自由で大きな精神にはなれない。子供がお金を投げてよこすのは礼儀に捉われない自由な精神を持っているという意味で良いことだと思う。やれ背筋を伸ばせだの、廊下を走るなだの、先生の前で足を組むなだの頬杖を付くなだの、色々な規則で子供を縛ろうとするけれど、台湾のテレビ番組を見ると、子供達が先生の前で足を組み頬杖を付き、机の上に寝そべったり、体を落ち着きなく揺らしたりしていて、先生もそれを気にせずニコニコ接していたし、生徒達もニコニコしながらリラックスした態度で先生と対等な口を聞いていた。子供達の表情は堂々として自信に満ち溢れていて開放的で幸福そうだった。日本の子供も礼儀の呪縛から解き放つべきだろう。礼儀なんか守る必要はない。礼儀を守ると不幸で卑屈でやかましいチンケな道徳屋になり下がる。日本には駄菓子屋のお婆さんのようなやかましい道徳屋が実に多いけれど子供達は気にせずに既存の礼儀とか道徳を破壊していってほしいと思う。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
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テーマ : つぶやき
ジャンル : 小説・文学

よく分かる

【神という言葉で始められる。この言葉はそれだけでは意味のないひびきであり、ただの名前である。述語が、神とは何であるか、を語るときに初めて、神という概念は充たされ、意味をうるのである。】


ヘーゲル『精神現象学』の一文。ヘーゲルの文章は難解だが、この一文はよく理解できる。
たとえば夏目漱石の批評に「エゴとエゴの相剋」と書く人がいる。一見意味深なことを書いているよう見えるが冷静に考えてみれば「エゴ」がそれぞれどういう性質のエゴなのか、そのエゴがどういうふうに「相剋」するのかを具体的に書いていないので、「エゴとエゴの相剋」という言葉は全く無内容な放言でしかない、ということが分かる。批評家はよくこのような放言を使いたがる。ネットを見ると今の若い人もこういう放言を論文に書くようだが気をつけたほうがいい。「エゴとエゴの相剋」だなんてダサい文章はインテリには受けても一般受けはしない。学問はインテリに受けるためではなく一般人に受けるために存在しなくてはならない。小さな子どもにでも読めるような平易で中身のある文章でなくては意味がない。インテリに受けても子どもにそっぽを向かれるような学問はダメな学問である。インテリに受けて喜んでいるようでは学問内容も死ぬし精神も死ぬ。学問は内に閉じられてはダメで常に外に開かれていなくてはならない。漱石が文壇ではなく庶民を押せと言ったのは学者なら誰もが肝に命じておくべき深い言葉である。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
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日めくり・ねこ時計
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ブログタイトルは夏目漱石の「黙々として牛の如くせよ」から。

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