大江健三郎『不意の唖』

大江健三郎の『不意の唖』を読んだ。
(恐らく)敗戦直後、僻地の村に、一台のジープがやって来る。ジープには進駐軍のアメリカ兵と通訳の日本人が乗っていた。この日本人通訳が横柄な人物で、村人たちをとことん困らせてしまう。
作者の大江は直接には描いていないが、この通訳は恐らく元日本兵という設定なのではないかと思う。注目すべきなのは大江がこの元日本兵と思わしき通訳の横柄を単純に通訳個人の横柄として描くのではなく日本の国民精神全体の横柄として規定している所だと思う。
通訳の男は戦時中は天皇に忠誠を誓っていたはずである。しかし戦争が終わってまだ幾らも経っていないのに、あっさりと天皇への忠誠を捨て去り、敵だったアメリカ軍の味方に付いているのである。つまり戦時中の天皇への忠誠は真っ赤な嘘であるか、極めて浅い物=偽物だったのである。そんな浮薄な通訳は、浮薄であるがゆえに、目先の利益を求めて、すぐに手のひらを返してアメリカ軍側に付いたのであった。浮薄な通訳には強い信念が持てない。自己の利益や、自己の地位、そして、自己が思う存分に威張ったり、自己の暴力性を満たせる場所がありさえすればそれでいいのである。そういう利益・欲望が約束できる場所ならば「天皇」の元でも「アメリカ軍」の元でも、どこでもいいのである。
信念を持たず、ただひたすら己のゆがんだ利益と欲望を追い求める。それが日本人の本質であると大江は言いたいのではないか。単純に日本軍の批判にとどまるのではなく、日本人という民族そのものの腐敗した国民精神を大江は鋭くえぐっているのではないかと思う。


物語は靴を何者かに(恐らく村人に)盗まれて台無しにされて腹を立てた通訳が、えんえんと執拗に陰湿に犯人さがしに狂奔する姿が綿密に描かれる。

《「おれの盗まれた品物が返るまで、おれたちはこの村を出ないぞ。おれが兵隊たちに、この村には反抗的な人間がいるというだけで、兵隊はこの村にとどまってとりしらべを始めるだろう。兵隊が腰をすえたら、お前らが今、山へやっている女房や娘もただではすまなくなるぞ」》

なくなったのはただの一足の靴である。しかもその靴が台無しにされたのは彼の横柄な態度による自業自得なのである。しかし彼はその事に気付くことなく、反省する事もなく、ひたすら自己の傷付けられた自尊心の穴埋めをしようと犯人さがしに躍起になるのである。
この陰湿さ、執拗さ、せこさ、残忍さは、日本軍がアジアの国々で行った数々の蛮行を彷彿とさせる。戦時中の狂気が、ほぼそのままの形で戦後によみがえったのである。つまり狂気なのは日本軍という組織なのではなく、日本人そのものが狂気なのである。日本人の狂気は戦時も戦後も、いついかなる時も潜在しており、それが何かのきっかけで噴き出してしまうのだ。そのきっかけの一つがかつての戦争だった。戦争が狂気を生み出すのではない。日本人そのものが狂気であり、戦争は日本人の狂気を呼び起こす一つのきっかけに過ぎなかったのである。きっかけさえあれば日本人はいつでも戦時中と同じような狂気を再現する。特に、圧倒的な権力を有しているか、もしくは圧倒的な権力の庇護にある場合に、自己の暴力性を満たそうと日本人は容赦なく弱者を虐げる。「自己が強者になる」というきっかけさえあれば日本人は暴虐をほしいままにする。そのような腐敗した狂気的な国民精神の本質を大江はこの短い物語の中に巧みに表現している。
ただ一つ残念なのは大江はこの通訳の横暴に対して通訳を殺害するという暴力的解決を図ってしまった点である。これは短絡的で、大江はもっと通訳の精神性(=国民精神)を掘り下げるべきだったと思う。しかしこの短絡さを大江は意識している。この短編は『同時代ゲーム』などの長編を書く為の準備運動なのだろう。大江はこの短編を出発点にしてさらに日本の国民精神の闇を暴こうとしているのだと思う。


「終戦」(=敗戦)という事実を持ってして、戦争は終わったのだと恥じも無くいい放ち、自らの戦争責任や自己の闇に向き合わない国民が多い中、大江は同胞を殺害するという行為によって国民精神全体の闇を暴き、深い反省を得ようとした。大江の誠実さは誰もが見習うべきだと思う。そしてこのような作品こそ映画化やドラマ化されてしかるべきだと思うのだが、日本では戦争被害を自己弁護的に甘ったるく描いた作品ばかりが映像化されている。こういう現象もまた腐敗した狂気的な国民精神の一端なのだろう。

(『同時代ゲーム』は日本軍と村の全面戦争を描いた作品。『不意の唖』は『同時代ゲーム』の原型ではないかと思う)
(『同時代ゲーム』で日本軍との対決を描いている事からも、『不意の唖』の通訳が元日本兵という読みは外れてはいないのではないかと思う)
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『こころ』両親と私(三)~(四)

両親と私(三)


明治天皇の病気の報知が入り卒業祝いは中止になる。

《父は黙って自分の病気の事も考えているらしかった。私はついこの間の卒業式に例年の通り大学へ行幸になった陛下を憶い出したりした。》

父に未来はない。田舎という不毛の地で不毛の精神のままに朽ち果てる運命しかない。対象的に私には未来がある。未来があるから明治天皇の病気の報知を聴いてもぼんやりと行幸した天皇の事を思い出すだけである。



両親と私(四)


《なぜか私は気が落ち付かなかった。あの目眩るしい東京の下宿の二階で、遠く走る電車の音を耳にしながら、頁を一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持よく勉強ができた。》

田舎とは違って東京には活力がある。何がしかの能力や野心を持った人々がせわしなく行き交っている。青年である私はそんな東京の活力を感じ取って発奮する事ができた。しかし田舎には何もない。停滞して活力も張り合いもない。ただ、どんちゃん騒ぎが好きな怠け者どもが居て、後は蝉が鳴いているだけである(メディアなどはよく田舎を礼賛するし、また田舎に魅了されて移住する人もいるが、田舎に魅了される人間は端的に言って都会で働く活力や能力のない無能である)。

私は読書をする気にはなれなかった。昼寝するしかなかった。私は悲しい気持ちを感じて、張り合いを得ようと、友人らに手紙を書いた。先生にも書いた。先生の手紙を封じる時、私はこう思う。

《先生ははたしてまだ東京にいるだろうかと疑った。先生が奥さんといっしょに宅を空ける場合には、五十恰好の切下の女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。私がかつて先生にあの人は何ですかと尋ねたら、先生は何と見えますかと聞き返した。私はその人を先生の親類と思い違えていた。先生は「私には親類はありませんよ」と答えた。先生の郷里にいる続きあいの人々と、先生は一向音信の取り遣りをしていなかった。私の疑問にしたその留守番の女の人は、先生とは縁のない奥さんの方の親戚であった。私は先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あの切下のお婆さんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうかなどと考えた。……》

田舎に居ると、他にやることがないから、手紙を書くという全く下らない退屈しのぎを思い付く。そしてその下らない退屈しのぎに引きずられて、上記のように《五十恰好の切下の女の人がどこからか来て、留守番をするのが例になっていた。》《私はその人を先生の親類と思い違えていた。》《その留守番の女の人は、先生とは縁のない奥さんの方の親戚であった。》《先生に郵便を出す時、ふと幅の細い帯を楽に後ろで結んでいるその人の姿を思い出した。》《もし先生夫婦がどこかへ避暑にでも行ったあとへこの郵便が届いたら、あの切下のお婆さんは、それをすぐ転地先へ送ってくれるだけの気転と親切があるだろうか》などと、恐ろしくどうでもいい事を次から次へと考えてしまう。田舎に居るとこういうふうにどうでもいい事ばかり考えてしまう。そして精神がスポイルされてしまって、優れた精神を作る事も優れた思想を作る事もできなくなってしまう。思想よりも経験的な事物のほうが大切な物として認識されるようになって能力が潰される。これが田舎の恐ろしさである。



私の父は、明治天皇の病気の報知が入るや否や、急に弱気になって、始めて本気で自分の死を考え始めている。思想の育たない田舎に住む父には確固たる思想や定見が持てない。だから自分の生き死にに関しても確固とした定見が持てず、気まぐれで「大丈夫」と言ったり「死ぬ死ぬ」と言ったりする。そんな気まぐれ屋の父は、明治天皇が死ぬかもしれない、という知らせによって、急に自分が死ぬかもしれないという気まぐれに陥っている。父の弱気は気まぐれである。父が明治天皇に思いを馳せたり、弱気になったりする裏には、なんらかの思想や定見があるのではなく、なんとなくの気まぐれである。


《「お父さんは本当に病気を怖がってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」
 母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。
「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」
 私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭いた。》

この母の対処法は非常に滑稽である。母は感情のレベルが低いから深く思いやったり深く心配する事ができない。将棋をやらせて元気付けるというような低い感情レベルにふさわしい付け焼刃の対処法を採っている。
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『こころ』両親と私(二)~(三)

両親と私(二)


父も私の心配をはねのける。

《「もっともだ。お前のいう通りだ。けれども、己の身体は必竟己の身体で、その己の身体についての養生法は、多年の経験上、己が一番能く心得ているはずだからね」》

父は口では死ぬ覚悟をしていると言いながらどこまでも生きるつもりでいる。私の実家の田舎の人々が皆そうであるように、父もまた自分本位であり、図々しく、ふてぶてしいから、死ぬつもりはない。しかし母に対しては死ぬ死ぬと言って同情を惹いている。精神レベルの低い田舎の人間には真面目な問題意識が生まれない。自分の死に対してすらも真面目な問題意識が生まれない。だから私の父のように息子に俺は死ぬ覚悟ができているんだ、と言って虚勢を張ってみたり、母に俺は死ぬと言って同情を惹いてみたりして、その場その場で自分の死をネタにして楽しむような軽薄な精神が生まれる。私の父は先生のように思想を持たないから、死んでも失う物は何もない。また私の父は先生のように妻に対する愛情が浅いから、自分が死んだ後の母の事を真面目に心配する事ができない。

《「…もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家にいる気かなんて」》

この父の《おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家にいる気か》というセリフはいかにも月並みで父の感情の浅さが容易に分かるセリフである。


ーーーーーー


両親と私(三)


私の卒業祝いを開いて客を呼ぶという話が出た。

《私は田舎の客が嫌いだった。飲んだり食ったりするのを、最後の目的としてやって来る彼らは、何か事があれば好いといった風の人ばかり揃っていた。私は子供の時から彼らの席に侍するのを心苦しく感じていた。まして自分のために彼らが来るとなると、私の苦痛はいっそう甚しいように想像された。しかし私は父や母の手前、あんな野鄙(やひ)な人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた。》

《「呼ばなくっても好いが、呼ばないとまた何とかいうから」
 これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。》

漱石は(一)と(二)で田舎の父と母を批判し、(三)ではこのように田舎の人間全体を批判している。田舎への批判意識が徹底している。

日本全体に蔓延する腐った偽善的な人情や道徳が田舎には凝縮されている。田舎は日本の腐った国民精神の縮図だから漱石は徹底的に容赦なく批判する(個人的に田舎が嫌いだから田舎を批判している訳ではない)。

私は卒業祝いを止せと言う。またこんな事も言っている。

《「つまり私のためなら、止して下さいというだけなんです。陰で何かいわれるのが厭だからというご主意なら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありません」》

田舎の腐った精神や腐った人間関係は押しとどめようのないほど強力なものである。防ぐ手立てはなく、ただ黙って我慢するしかない。先生なら黙って我慢していただろう。私のように何か言って反抗したり口答えすると新しい波乱や混乱が起こるだけである。黙っているのが正解である。私が黙っていられないのは先生ほど能力のレベルが高くないからである。しかし、私が黙っていられないのは、田舎と分離しようとする私の無意識の積極的な意志でもある。このような積極的な意志は消極性に塗れた先生には持てないだろう。だから結局、私が黙っていられないのは能力の低さが原因であるが、しかし同時にその積極性は、私が先生の限界を超えて先生とは違った新しい道を開拓しようとする肯定に値する精神である。だから黙る先生と黙らない私、どちらが正しいかというと、どちらも正しいのだが、私の行為ほうが積極的であり有意義であり、先生よりも有能だと言える。私はこういう言動や思考を積み重ねてやがて先生と分離し田舎とも分離して行くだろう。私はすでに自立的な独自の精神を築き始めている。
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『こころ』両親と私(二)

《 私は母を蔭へ呼んで父の病状を尋ねた。
   「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」  
   「もう何ともないようだよ。大方好くおなりなんだろう」》

漱石はこの章で田舎の人間が薄情であることをはっきり規定している。東京に住む先生と奥さんには私の父を心配する感情があった。私の母にももちろん心配する感情はあるが、先生や奥さんよりもレベルの低い感情である。私の母が父をそれほど心配しないのは母の「大らかさ」などではなく「感情のレベルの低さ」として漱石は描いている。

《都会から懸け隔たった森や田の中に住んでいる女の常として、母はこういう事に掛けてはまるで無知識であった。》

社会から隔絶された田舎に住むと新しい知識や新しい精神などに触れる機会が得られず、感情が停滞し枯渇してしまう。田舎には都会よりも豊かな感情があるというのは大嘘である。田舎より都会のほうが豊かな感情がある。

私は、私の父と同じ病気で亡くなった先生の父の話をして、母に注意を喚起しようとする。しかし母は、

《「へえ、やっぱり同じ病気でね。お気の毒だね。いくつでお亡くなりかえ、その方は」》

などと言う。《お気の毒だね》と言う様子からは少しも心を痛めている感情が見られない。《いくつでお亡くなりかえ》とどうでもいい事を聞いている事からも、母が先生の父の事を全く気の毒に思っていない事が分かる。私は《仕方がないから、母をそのままにしておいて…》と言っている。私は自分の母に愛想を尽かし始めている。このような感情のすれ違いを蓄積して私の心の中で田舎に対する批判意識が高まっていく。田舎と分離する精神が発達していく。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
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『こころ』両親と私(一)

「卒業が出来てまあ結構だ」と私の父は心底満足そうである。私は不快に思って「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません」と言う。父は変な顔をする。そして長々と、どうして結構だと思うのかを説明する。

《「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月か四月ぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合せか、今日までこうしている。起居に不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だから嬉しいのさ。せっかく丹精した息子が……》

この後も長々と続くが省略する。父は間違ったことは言っていない。父が息子のことを愛してるいることも分かる。普通の、田舎じゃなくても、どこでも見られる人情である。
しかし漱石は「無知」「田舎臭い」と一蹴している。

父の人情が下らないことは、思想に生きる人間にとっては自明の理である。父の人情を否定するには、父の人情を超えるほどの思想とか能力を蓄積する必要がある。思想や能力を蓄積すれば、父の人情は簡単に感覚的に否定できるようになる。理屈でどうこう否定するのではなく、思想・能力の蓄積によって否定しないと否定できない。だから理屈では説明できない。それで漱石は父の理屈に理屈で対抗するのではなく、「無知」「田舎臭い」と言って感覚的な否定をしている。この否定のセリフのセンスは、能力の高さに比例する。このセリフ選びはいい。漱石の能力の高さがよく分かる。

自分も漱石ほどではないが、人情やお涙頂戴を馬鹿らしく思えるようになってきた。他人のお涙頂戴にうんざりさせられることも多くなった。漱石は『硝子戸の中』で人生相談をしに来た女に「綺麗に片付くって、部屋の中がですか?」とか言っていたが、あのセンスも大変いい。



ーーーーーー



《私は一言もなかった。詫まる以上に恐縮して俯向いていた。父は平気なうちに自分の死を覚悟していたものとみえる。しかも私の卒業する前に死ぬだろうと思い定めていたとみえる。その卒業が父の心にどのくらい響くかも考えずにいた私は全く愚かものであった。》

私は恐縮する必要はない。《愚かもの》だと反省する必要もない。私は父の人情に訴えた長話を否定するべきである。今はまだ能力が高くないから父の人情話に引っ張られるが、能力が高くなれば父の人情話なんぞは簡単に否定できるようになる。…とは言え、私が素直に反省できる性格の柔軟さは、能力を伸ばす過程で大いに役に立つだろう。素直で柔軟な私は、あらゆる精神を取り入れて、あらゆる精神を乗り越えた精神や能力や思想を手に入れて行くだろう。



ーーーーーー



《私は鞄の中から卒業証書を取り出して、それを大事そうに父と母に見せた。証書は何かに圧し潰されて、元の形を失っていた。父はそれを鄭寧に伸した。
「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」
「中に心でも入れると好かったのに」と母も傍から注意した。》

思想的世界、あるいは普遍的世界に生きず、経験的世界に生きる場合、卒業という経験的事物は大変に重大な事として崇められる。卒業を崇める経験的意識なんぞ全く下らない。《「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」「中に心でも入れると好かったのに」》という滑稽なセリフに漱石の批判意識が込められている。

《父はしばらくそれを眺めた後、起って床の間の所へ行って、誰の目にもすぐはいるような正面へ証書を置いた。(略)一旦癖のついた鳥の子紙の証書は、なかなか父の自由にならなかった。適当な位置に置かれるや否や、すぐ己れに自然な勢いを得て倒れようとした。》

私が恐縮しているのは一時的なものである。私は一時的に恐縮してはいるものの、田舎の人情形態と対決する鋭い精神を持っている。だから卒業証書は(私の鋭い田舎的精神への批判意識を象徴して)父の自由にならず、すぐに己の自然に従って倒れてしまう(動いてしまう)。
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『こころ』両親と私(一)

『こころ』両親と私(一)


《「卒業が出来てまあ結構だ」》と繰り返す父。私はその無知と田舎臭さに不快を感じた。そして《「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」》と、私は《ついにこんな口の利きようをし》た。すると父が変な顔をした。父は「なぜ卒業を結構だと思うのか」の長い説明をしている。

《「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月か四月ぐらいなものだろうと思っていたのさ。それがどういう仕合せか、今日までこうしている。起居に不自由なくこうしている。そこへお前が卒業してくれた。だから嬉しいのさ。せっかく丹精した息子が、自分のいなくなった後で卒業してくれるよりも、丈夫なうちに学校を出てくれる方が親の身になれば嬉しいだろうじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、高が大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」》

父の言うことは最もである。全く正当で、全く自然な感情である。どこにも間違いはない。しかし思想の世界に生きる人間にとって、人の生き死になんてどうでもいいことである。思想の世界に生きる人間は思想だけを尊敬し、人の生死を含むあらゆる世俗の雑事を軽蔑する。先生はもし私の父から同じようなことを言われていたらさぞ嫌な顔をしていたことだろう。しかし私の場合は父の話を聞いて《私は一言もなかった。詫まる以上に恐縮して俯向いていた》と告白している。これは私の能力がまだ先生ほど高くはないからである。私の能力が高くなれば父のこのような下らない長話を簡単に否定することができるだろう。


ーーーーーー


上記のようなことを書くと父の心情を否定する薄情者に思われるかもしれないが、思想というものはあらゆる世俗的な物を払拭した、限りなく純粋なものでなければならない。思想には世俗的な曇りが一点も混じってはいけない。思想は普遍的でなければならない。どれほど切実であろうが個人の心情が思想に混入してはいけない。樋口一葉は『にごりえ』で酌婦の壮絶な苦しみを描いたが、最後はその苦しみを否定して、普遍的な思想の世界に入っていく決意をした。漱石、一葉、そして二葉亭四迷のような日本の天才たちや、またゲーテやモリエールやシェイクスピアのような天才たちも思想から世俗的な異物の混入を払拭し純粋な思想の形成を目指した。『こころ』において漱石は人間の心を思想の世界に生きる心と世俗の世界に生きる心の二つに分けており、先生を完全に思想の世界に生きる心として描き、私を中間に生きる人間として描いている。私は中間に生きながら停滞することなく思想の世界へと順調に移行(成長)して行っているように見える。私は今こそ父の長話に恐縮してしまっているが、やがて父の長話を簡単に否定できるようになるだろう。それほどの大きな才能と可能性を私は秘めている。

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『スーパー赤カス』

※ムシャクシャして書き散らしたライトノベルです。かなり下らないです。続きは書くかは分かりません。

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『こころ』地位と思想

先生は私の大学の卒業を何とも思っていない。思想に生きる先生にとって卒業という事物は思想とは無縁のごく下らないものである。
対象的に私の父は私の卒業を喜ぶ。「卒業が出来てまあ結構だ」という言葉を繰り返す。父は思想ではなく経験的世界に生きている。
と言っても父は俗物ということではない。息子である私への愛情があるから卒業を喜んでいる。
しかし思想に生きる人間にとって父の反応は陳腐であり不快であり、卒業をけなす先生の反応のほうが高尚に見える。


思想は地位の高さによって磨かれるものではない。東大や慶応や早稲田を卒業したり、教授になったり、博士になったり、有名な賞を貰ったからといって、優れた思想が作れるとは限らない。東大の教授でもファシズムを肯定するクズがいる。漫画を真面目に研究するようなバカな教授もいる。
思想を作るには読書は欠かせないが立派な書斎や研究室は必要ない。読書は図書館でも公園でもトイレでもどこでもできる。だから普通の主婦や土方やホームレスが有名な教授を上回る優れた思想を作る可能性もある。思想は地位や身分で作られるとは限らない。だから先生は私の卒業を重要視しない。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
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『こころ』木犀と門

《先生の玄関と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐように、夜陰のうちに枝を張っていた。》

「私」にとってこの木犀は先生の象徴なのだろう。美しい木犀は私を魅了しているが、しかし私はその魅力に溺れることはない。私は木犀=先生から自由である。奥さんは先生への深い愛によって先生に溺れ、先生に縛られ、自由に精神や思想や能力を伸ばすことができないでいるが、私は先生を愛しながら先生に溺れたり縛られることなく、自由に能力を伸ばすことができる。
私が《再びこの宅の玄関を跨ぐべき次の秋に思を馳せた時、今まで格子の間から射していた玄関の電燈がふっと消え》た。《先生夫婦はそれぎり奥へ這入った》のである。電燈が消えるということ、先生夫婦が奥へ入っていったということは、私は先生夫婦とこれっきり縁を切って、先生夫婦とは全く違った新しい能力や精神や思想を創造してほしい、という漱石の願いである。いつまでも木犀=先生に魅了されているのではなく、さっさと門をくぐって広い社会に出て、新鮮な空気を吸って、先生に代わるような新しい思想なり精神なりを作ってほしいという漱石の強い願いが感じられる。実際、門をくぐって外へ出て、田舎へ帰った私は、先生を自殺によって失って永遠に会うことができなくなってしまう。しかしそれでいいのである。先生は優れているが決定的な限界を持っており、いつまでも先生に魅了されていてはいけない。先生の精神を受け継ぎつつ、先生の精神と分離して、独立的な精神を作らなければならない。

門を出た私の眼前に広がる外の世界には、先生のような優れた人物は一人もいない。誰も彼もが、用事や目的を持たず、ただブラブラとだらしなくその日その日を適当に生きている。先生は能力を極限まで突き詰めたうえで、何をすることがなくなってしまい、その結果ごろごろしているように見えた。しかし先生以外の人々は能力を高めるという目的も持たず、かといって何もやる気がなくて、それでごろごろとしている。無為の、怠惰のごろごろであって、先生のごろごろとは全く違う。たとえ財産や地位を持っていても、あるいは友人や恋人に恵まれていても、思想に関心を持たず、無目的にその日その日を適当に刹那的に楽しんでいるのならば、その人生は不毛であり不幸でしかない。大抵の日本人はその日その日を適当に刹那的に生きる不幸者として漱石は厳しく描いている。
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『陰気な男』

   『陰気な男』


   頭もそこそこ良いし、顔もそこそこ良いし、背もそこそこ高いから、性格さえ善良であれば彼女もできただろうし、もしかすると結婚もできて、今ごろは幸福な家庭を築いていたかもしれなかった。しかし惜しいことに彼は陰気だった。その陰気が彼の身体的美点の全てを無残に打ち消した。そして真っ当に生きていれば人生で得られるべきはずの幸福の味を咀嚼する機会を完全に失った。
   彼が咀嚼するものは、他人に勝った時の、ほんのささやかな勝利の喜びと、他人に負けた時の、限りなく大きな敗北の苦い味だけであった。
   「……負けた。……ちくしょう。…………ぶっちくしょう!」
   彼の身内は今日も敗北の味で一杯に塗り潰されていた。
   彼は自分が世界一偉いと思っていた。だからその確証を得る為に、バイト先の同僚の誰それを自分と比べた。
   たとえば、同僚の島袋と自分を心の中でこっそり比較して、
   (……俺はあいつより背が高い。やった、勝った!)
   と快哉を叫ぶ。
   今度は同僚の具志堅と自分比較する。
   (……俺はこいつより靴のサイズが小さい。……負けた。……ちくしょう。…………ぶっちくしょう!)
   と、とてつもない敗北感に打ちのめされる。
   またある時は、出勤する時にいつもバスで乗り合わせる、自分と同年代らしい三十歳ほどの青年と自分を比べてみた。
   (俺はイオンの弁当工場で働いている。本土の一流スーパーだ。しかしどうだ? 話し掛けて聞いてみると、こいつは、カネヒデという沖縄の小さなローカルスーパーの弁当工場で働いているというではないか。やった、勝った!)
   彼はこのいかにも大人しそうな青年をじろじろ観察した。
   彼よりも背が低い。彼よりもブサイクだ。彼は毛髪がサラサラしている(これは彼のとびっきりの自慢だった)が、青年は毛髪が硬くてゴワゴワしていて、まるでタワシを頭に乗っけているみたいだ。彼はシャツに病的なまでにキレイにアイロンを当てているが、青年は身なりを整えることに無頓着らしく、シャツはシワだらけだし襟と袖がヨレヨレで黄ばんでいるうえに、ズボンも靴も汚れていた。
   彼は顔一杯に喜悦の笑いを浮かべながら無言で青年をじっと凝視した。青年はちょっと迷惑そうに顔をしかめた。
   (勝った)彼は思った。(こいつはビビっている。度胸の点で、俺は勝った!)
   バスを降りると青年は心なしか足早に去っていく。
   (勝った! 完全に勝った! やつは完全にビビっていた! 勝った! 勝った! 勝った! やった!)
   陰気な喜びが彼の身内を一杯に浸した。彼は満足しながらバイト先の弁当工場に向かった。しかし、敷居を一歩またぐや、たちまち暗い表情に早変わりした。
   最近、彼は工場の中で苦境に立たされていた。
   何があったかというと、何ということもない。ただ、あまり優秀でない人が次々に辞めていって、替わりに優秀な人が続々と入ってきたということであった。彼ら、彼女らは、そつなく、頭がよく、仕事の量も質も完璧で、おまけに若くハツラツとしていて性格も良かった。つまり職場には優秀で性格の良い人間しかいなくなったのである。それは普通の人間にとっては大変めでたいことであった。働くうえで一番の問題は人間関係である。その人間関係がこのうえなく順調であるということは、働く者にとって、最大の幸福であるべきはずであった。しかし、彼にとってそれは、地獄の苦しみ以外の何物でもないのであった。なぜなら、他人をマウンティングできないから! ーーそれは彼には死活問題だった。人生の終わりを意味していた。
   彼は毎日歯噛みした。彼は毎日優秀な同僚たちと自分とを比較して、無残な敗北感に打ちひしがれるのであった。
   だが苦境はそれだけではなかった。彼が心の中でこっそり他人をマウンティングしているという事実がパッと職場中に広がってしまったのである。
   あまりの悔しさ、あまりの惨めったらしさのあまり、彼は休憩室の隅っこに立って、一人ブツブツと、「俺はあいつと比べて性格が暗い。……負けた。……ちくしょう。…………ぶっちくしょう! しかし、俺はあいつに比べて歯が白い! それに髪がサラサラだし、あいつよりも発声がキレイだ! だから、そういう見てくれの点に関しては、俺はあいつよりも遥かに優っているのだ! わかったか! あんまり調子に乗るんじゃないぞ! ぶっちくしょい!」とやらかしてしまった。
   気配がして振り向くと、同僚達が立っていて、心底驚いた顔をしながら、恐る恐る彼を遠巻きに観察していた。彼は恥ずかしさと怒りのあまりドシンドシンと床を踏みしめながら部屋を出ていった。
   それからというもの、同僚たちは彼を気味悪がる素振りを見せたり、軽蔑したような視線を投げかけるのであった。自尊心の塊のような彼にとって、それらは身を切るよう辛い仕打ちであった。彼は思い切って工場を辞めてしまった。
   ハローワークに行こうと思ってバスに揺られていると、後ろの席に例の大人しい青年が座っているのに気付いた。彼は思った。青年の職場で働ければ当分食うのに困らないし、青年をマウンティングすることもできて一石二鳥だ。彼は喜悦の笑みを浮かべながら青年に話し掛けた。ちょうど青年の働く工場は働き手を募集していたので、彼は首尾良く働くことができたのであったが、しかしここでも苦境が待ち受けていた。
   「君、なんでそんなにチビなんだい? なんでそんなに唇が不格好に分厚いんだい? なんでそんなに目が小さくて、腫れぼったい瞼をしているんだい? 俺を見てごらんよ。俺はねぇ、ずいぶんいい男だよ。いまでいうイケメンというやつだねぇ。それに俺は手が大きいし、指が長くてキレイでしょ? 親戚の伯母さんたちから『手のモデルをやれば?』っていわれていたんだよねぇ。それから俺はねぇ、親孝行なんだよねぇ。母さんがねぇ、風邪で寝込んだりしたらねぇ、ほら、寝ていなさいよ、といって上げたりねぇ、冷凍庫アイスノンの枕を持ってきて頭の下に敷いて上げたりするんだよねぇ? …おい、聴いてるかい? えぇ、おい?」
   青年はねちっこい彼のマウンティングと自慢話を聴いて、心底呆れ果ててしかめっ面をしたのだが、彼はそれを敗北の渋面だと受け取って、(勝った! 勝った! 勝った! やった!)と心の中で快哉を叫ぶのであった。
   青年のおかげで彼は毎日が幸せだった。しかし青年は日に日に疲弊していった。そしてさすがの青年にも限界がきて、ある日、彼にこういいはなったのであった。
   「おまえ、精神障害者相手にマウント取って恥ずかしくないのか」
   「は?」
   「俺はなぁ、第一級の精神障害者なんだよ。社会復帰の為にこの工場で働いているんだよ」
   「うそ…」
   「おまえは精神障害者相手にずっとマウントを取っていたんだよ。恥ずかしくないのかよ。このウスノロが」
   ウスノロ……この言葉は彼の心に深く突き刺さった。
   「なにが髪がサラサラだ? なにが手が大きいだ? なにが指が長いだ? そんな些細な自慢をしてむなしくならないのかよ? おまえがどれほど陰気で惨めったらしい人間かということを、みんなに言いふらしてやるからな。覚えておけよ」
   青年は彼の口にしたマウンティングと自慢話の数々をスマホに録音しており、同僚達に聴かせて歩いた。彼の陰気で卑劣な性質がパッと職場中に広がってしまった。
   彼は怒って職場に何も告げずに一方的に辞めてしまった。そうしてスマホに入れていた青年の顔写真(彼はこれをこっそり撮って、暇な時に見て「なんてブサイクなんだ」と笑っていたのだった)をプリントアウトして、家の壁に貼ると、思うさま殴りつけるのであった。おかげで半月で四キロも痩せることができた。
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