モリエール『孤客』

『孤客』について新しい考えが浮かんだ。簡単な感想を書いてみたいと思う。
精神世界にはヒエラルキーがあって、最底辺がオロント、中間がフィラント、最上位がアルセスト、であると思う。で、最終的に最上位のアルセストは更に精神を上昇させ、現象から分離して普遍へと到達し、普遍の世界から現象の精神世界全体を引き上げるのだ、そのためにアルセストは世を捨てたのだ、と思っていた。が、これは間違いだった。アルセストは現象の世界を引き上げようとは思っていない。現象に居るかぎり、現象を超越した別の次元に行く事はできない。ずっと現象に規定された、現象内部の精神であり続けるしかない。アルセストが世を捨てて砂漠に行き、余生を一人で送ったとしても、現象から誕生したアルセストの精神は一生現象に縛られ続ける。アルセストが世を捨てたのは現象から完全に解脱する為ではなく、できる限り現象の下らない些事から逃れようとしたからだろうと思う。アルセストが現象から完全に解脱するには自殺するしかない。自殺を避け、生き続けながら、現象の些事や苦しみから逃れるには、物理的な意味で孤独な場所へ行くしかない。そして生きる意味を失いながら、理解も共感も得られず、新しい人間関係も作れないまま、一人でひっそり生きるという地獄が待っている。この地獄は高度の精神を持った人間にしか得られない高度な生活である。『こころ』の先生も孤独を選んだ。そして孤独に悩まされる生活を送り、最終的には自殺をした。天才の描く小説は世界の救済を図るのではなく、世界に絶望し、世界から逃避をするのかもしれないと思った。それは「卑怯」や「惨め」ではなく、世界を知悉した結果としての、高度な諦め、「達観」である。『孤客』はアルセストが達観に至るまでをユーモラスに、楽しく、軽く描いている。漱石が『猫』から書き初めて『こころ』でようやく達観に達したのに、モリエールは『孤客』という短い作品によって達観という課題を軽々と描いている。
「心理の絡み合い」や「セリフ選びのセンス」などといった小さな技巧的な観方をするのではなく、達観に至るまでの作者の大胆で高度な精神性を楽しむ戯曲である。
スポンサーサイト
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

テーマ : 読書感想文
ジャンル : 小説・文学

伊豆利彦さんの『虞美人草』論

「虞美人草」の思想 上
http://tizu.cocolog-nifty.com/souseki/2010/04/post-1436.html

「虞美人草」の世界 下
http://tizu.cocolog-nifty.com/souseki/2010/04/post-10fb.html

第5回 朝日新聞入社 「野分」から『虞美人草』へ
http://tizu.cocolog-nifty.com/zakki/2012/06/post-3e37.html

会報記事 「虞美人草」と京都
http://s.webry.info/sp/kyotososeki.at.webry.info/200912/article_34.html

にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

『坊ちゃん』の映画



うまく纏まっている。ただ原作にはないオチは蛇足だと思う にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

夏目漱石『虞美人草』感想

【「どうでも、好いさ。──まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは蓮池に渡した石橋の欄干に尻をかける。欄干の腰には大きな三階松が三寸の厚さを透かして水に臨んでいる。石には苔の斑が薄青く吹き出して、灰を交えた紫の質に深く食い込む下に、枯蓮の黄な軸がすいすいと、去年の霜を弥生の中に突き出している。】


   甲野は無秩序の自然より秩序立った人工物を愛する。しかし人工物も自然(三階松、苔)に侵食される。この世の中は混沌である。「自然」「人工物」といった雅号で規定できたと思っても、別の角度から見ると、その規定も怪しく見えてくる。「自然」も「人工物」も溶け合ったり、反発し合ったりしている。複雑に絡み合い、関係し合っている。この世に明確な物はない。明確な善もない。明確な悪もない。だから単純に甲野・宗近を善と規定し、藤尾を悪と規定して対処する訳にはいかない。宗近は単純に現実を規定する。自分を善と信じて疑わない。だから直裁に行動ができる。しかし現実の混沌を思い知る甲野には、宗近のような直裁な行動ができない。甲野が宗近よりも何歩も思索を勧めている成果である。甲野の成果は現実に真理を発見することではなく混沌を発見することだった。動くことではなく動けなくなることであった。

   宗近はいう。【「元来、君は我儘過ぎるよ。日本と云う考が君の頭のなかにあるかい」】。甲野が動けないのは、動かないから、ではなく、動けないから、である。甲野が我儘なのではなく、現実が混沌で謎に満ちているから、動くのを辞めざるを得ない。


【「君は日本の運命を考えた事があるのか」と甲野さんは、杖の先に力を入れて、持たした体を少し後ろへ開いた。
   「運命は神の考えるものだ。人間は人間らしく働けばそれで結構だ。日露戦争を見ろ」
   「たまたま風邪が癒れば長命だと思ってる」
   「日本が短命だと云うのかね」と宗近君は詰め寄せた。
   「日本と露西亜の戦争じゃない。人種と人種の戦争だよ」
   「無論さ」
   「亜米利加を見ろ、印度を見ろ、亜弗利加を見ろ」
   「それは叔父さんが外国で死んだから、おれも外国で死ぬと云う論法だよ」
   「論より証拠誰でも死ぬじゃないか」】


   甲野は現実を雅号=偏見で規定しない。「日本」「日露戦争」そういった言葉は偏見である。宗近は単純な偏見で現実を規定しようとしているから日本とか日露戦争とか大きな括りで現実を規定しようとして雅号を連発する。巨大な混沌である現実を偏見で規定するのは不可能である。現実の正体はまだ誰も見たことがない。見ない前から偏見を適用することができるはずがない。【すべてを爪弾きした甲野さんは杖の先で、とんと石橋を敲いて、ぞっとしたように肩を縮め】ている。偏見に安住できない甲野には偏見を作ってそれを足場にして安心することができない。常に不安の上に立っている。混沌の底へ落下する恐怖を抱えて生きている。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

夏目漱石『虞美人草』感想

【「夢窓国師や大燈国師になるから、こんな所を逍遥する価値があるんだ。ただ見物したって何になるもんか」
   「夢窓国師も家根になって明治まで生きていれば結構だ。安直な銅像よりよっぽどいいね」
   「そうさ、一目瞭然だ」】


   甲野は寺に価値を見出している。寺は人工物である。無秩序に転がっている自然物とは違い作り手の思想が秩序立って込められている。物事の形式ではなく本質に意義を見出す甲野は、形式の叡山よりも本質の寺を愛する。夢窓国師はただ権威を求めて地位を登りつめるのではなく、思想的な仕事を残した。思想的な仕事が先行し、地位はその後からついてきた。夢窓国師は虚しい形式的の雅号よりも、実のある仕事を選んだ。甲野が夢窓国師をどのように評価しているのかは不明であるが甲野は夢窓国師の生き方に憧れているように見える。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

夏目漱石『虞美人草』感想

【下女がむやみに笑うのは小野さんに愛嬌があるからである。愛嬌のない御客は下女から見ると半文の価値もない。小野さんはこの心理を心得ている。今日まで下女の人望を繋いだのも全くこの自覚に基づく。小野さんは下女の人望をさえ妄りに落す事を好まぬほどの人物である。】


   小野の堕落ぶりが伺える文章である。人に愛想良くするのは良いことだが、小野の場合は博士になるための世渡りの為に愛想良くする習慣を身に付けている。東京のブルジョワ風に洗練されて来ているが、インテリとしては堕落し始めている。


【同一の空間は二物によって同時に占有せらるる事能わずと昔しの哲学者が云った。愛嬌と不安が同時に小野さんの脳髄に宿る事はこの哲学者の発明に反する。】


   甲野は不安と戦うことを信条としている。そうして不安を乗り越えて、不安を客観的に眺める余裕を得る所まで進化した。それに比べて小野は不安を嫌悪し、愛嬌、つまり快楽に人生の意義を認めている。
   しかし小野の快楽を追求する態度はまだ徹底していなかった。だから孤堂と小夜子が来るという単純な事実によって小野の快楽を追求する態度は激しく動揺している。小野はまだ快楽の世界から不安の世界に戻って来れる可能性を秘めている。


【「ええ天気だな」と胡坐をかく。小野さんは天気の事を忘れていた。
   「いい天気だね」
   「博覧会へ行ったか」
   「いいや、まだ行かない」
   「行って見い、面白いぜ。昨日行っての、アイスクリームを食うて来た」
   「アイスクリーム? そう、昨日はだいぶ暑かったからね」
   「今度は露西亜料理を食いに行くつもりだ。どうだいっしょに行かんか」
   「今日かい」
   「うん今日でもいい」
   「今日は、少し……」
   「行かんか。あまり勉強すると病気になるぞ。早く博士になって、美しい嫁さんでも貰おうと思うてけつかる。失敬な奴ちゃ」
   「なにそんな事はない。勉強がちっとも出来なくって困る」
   「神経衰弱だろう。顔色が悪いぞ」
   「そうか、どうも心持ちがわるい」
   「そうだろう。井上の御嬢さんが心配する、早く露西亜料理でも食うて、好うならんと」…】


   小野の旧友の浅井には深刻な問題意識がない。天気の良さに感じ入り、博覧会を楽しみ、流行のアイスクリームを食べて、ロシア料理に思いを馳せる。浅井はその日その日を楽しく気楽に過ごせればそれで良い。浅井に限らず現代の日本人も大体このような感じで軽薄である。小野、浅井、藤尾のように、深刻な問題意識を持たず、馬鹿げた享楽にふけり、たまに何か考え事をしたかと思えば現実離れした空卒な談義や他人の陰口に時間を浪費し、難しい本を読んだだけで自分が偉くなったと勘違いして周囲に浅い知識をひけらかす。それが日本人である。漱石はこの作品で日本人の軽薄な特徴を客観的に上手く捉えている。浅井には、上流階級を選ぶか下層を選ぶかという小野の深刻な悩みが理解できない。小野の悩みに対して「早く露西亜料理でも食うて、好うならんと」と馬鹿げた助言をしている。人生をかけた難題の前で悩む人物に対して料理を食べて元気を出せというのだからよっぽど無能である。日本では浅井のような精神内容の空っぽな人物が「サバサバした好人物」などと高く評価される。反対に小野や甲野のように何か課題を抱えて悩んでいる人物は「暗い」「ネガティブ」などと評価され「元気出しなさいよ」などと的外れな説教をされる。小野と甲野の悩みは精神内容を充実させるための建設的な苦悩であるがそれでも日本ではやはり「暗い」と否定され理解されない。浅井のように頭が空っぽでニコニコ笑っていると「元気があって健康的」「気持ちの良い人物だ」となる。精神内容が空虚な国民性だから精神内容が空虚な人物を評価する。精神内容の充実した人物は嫉妬や嫌悪や迫害の対象になる。尊敬されたとしても漱石のように偏見や曲解を通して理解される。限りなく稚拙な国民性である。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

夏目漱石『虞美人草』感想

●第三節


【宗近君はだまって鼻をぴくつかせている。
   「また鱧を食わせるな。毎日鱧ばかり食って腹の中が小骨だらけだ。京都と云う所は実に愚な所だ。もういい加減に帰ろうじゃないか」】


   甲野が藤岡や時計という現象から跳躍し社会法則に思いを馳せている時に、宗近は鱧に思いを馳せている。宗近はあくまでも現象に生きる実践的主体である。思索的に甲野を超える事はできない。



●第四節


【水底の藻は、暗い所に漂うて、白帆行く岸辺に日のあたる事を知らぬ。右に揺こうが、左りに靡こうが嬲るは波である。ただその時々に逆らわなければ済む。馴れては波も気にならぬ。波は何物ぞと考える暇もない。なぜ波がつらく己れにあたるかは無論問題には上らぬ。上ったところで改良は出来ぬ。ただ運命が暗い所に生えていろと云う。そこで生えている。ただ運命が朝な夕なに動けと云う。だから動いている。──小野さんは水底の藻であった。】


   小野は不幸な幼少期を送った。不幸は小野から考える力を奪い取った。小野は「波(社会)は何物ぞ」と考える機会を失った。甲野が持っているような、社会を規定しよう、社会を改善しようという、インテリなら誰もが持つべき課題を小野は喪失した。小野は何も考えず、運命に流されるままに生きるという怠惰で堕落した生活を送った。何も考えず東京に出た小野は、何も考えないままに学問をし、恩賜の銀時計を貰った。権力を手に入れる事のできる地位を得た事で初めて彼は自己の目標を決める。その目標とは更に地位を得る事、地位を盤石なものにする事、であった。不幸な幼少期が彼から考える力を奪い、社会変革というインテリとしての使命を喪失させ、軽薄な人間に仕立て上げ、その結果として彼は地位を目標にした。また藤尾という女や藤尾という女の生きる趣味的世界を目標にした。彼は学問そのものを追求するのではなく、学問によって得られる地位と藤尾の世界を追求しようとしている。学問を道具にしようとするのである。学問を冒涜しようとするのである。小野は憐れな男である。


【世界は色の世界である。いたずらに空華と云い鏡花と云う。真如の実相とは、世に容れられぬ畸形の徒が、容れられぬ恨を、黒※郷裏に晴らすための妄想である。盲人は鼎を撫でる。色が見えねばこそ形が究めたくなる。手のない盲人は撫でる事をすらあえてせぬ。ものの本体を耳目のほかに求めんとするは、手のない盲人の所作である。小野さんの机の上には花が活けてある。窓の外には柳が緑を吹く。鼻の先には金縁の眼鏡が掛かっている】


   漱石は道徳的な批判意識を小野に持っており、なかなか手厳しい。「畸形の徒」「盲人」などと強烈な言葉を用いている。しかしこれは小野の外面に対する浅い批判であって、小野の本体を捉えた本質的な批判ではない。小野を批判し改善する方法は、小野を批判し改善しようとしない事である。小野個人ではなく小野を作った社会(波)を批判し改善する事が小野に対する本質的で有効な批判となる。小野という対象個人への外面的な批判はすべて無効である。それは漱石にも分かっている。漱石の小野に対する外面批判は本質への批判に移行する為の準備、模索である。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

夏目漱石『虞美人草』感想

【「もう着いた時分だね。公使館の佐伯と云う人が持って来てくれるはずだ。──何にもないだろう──書物が少しあるかな」】


   甲野の父は身分の高い人間らしい。そのような人間の遺物だから高価な物ーー藤尾や小野が喜びそうな装飾的な物ーーも沢山あるだろう。しかし甲野にはそのような物は興味がない。価値がない。だから「何もないだろう」と言っている。甲野には精神の糧になりそうな書物があればそれで沢山である。その書物も甲野にとって価値のあるのは「少し」だけであるから、甲野が到達した思想的境地がいかに非凡であるかが分かるだろう。甲野はすでにちょっとやそっとの書物では満足できなくなっている。


【「…それよりか君は女房を貰わないのかい」
   「僕か──だって──食わす事が出来ないもの」
   「だから御母さんの云う通りに君が家を襲いで……」
    「そりゃ駄目だよ。母が何と云ったって、僕は厭なんだ」
    「妙だね、どうも。君が判然しないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれないんだろう」
    「行かれないんじゃない、行かないんだ」】


   ブルジョワ階級の不毛を徹底的に知り尽くし徹底的に嫌悪している甲野がブルジョワ階級を継ぐ訳にはいかない。家を継ぐ、という事は、ブルジョワ階級の不毛な精神をもまるごと継ぐ、という事を宗近は知らない。だから平気で家を継ぐ事をすすめる。甲野さんは女房を貰うために家を継ぐ(ブルジョワ階級の不毛に染まる)ような俗物ではない。そのような精神の自殺をするくらいなら女房なんて貰わないでも構わない。それが甲野流の考え方である。
   【君が判然としないもんだから、藤尾さんも嫁に行かれない】これも宗近の間違いである。藤尾は家に附帯したブルジョワ的な生活や精神を十二分に楽しんでいる。藤尾は結婚するよりは家にいたほうが楽しい。だから嫁に行かない。それにまた藤尾はブルジョワ的精神にどっぷり浸かった結果、この階級に特有の消極性に陥ってしまっている。財産の力は強力である。財産があれば何もしなくても何でもできる。財産は人から情熱や感情や積極性を奪い、その精神を消極性で塗り潰す。藤尾は小野に好意を抱いているが愛は抱いていない。愛を抱くには情熱や感情や積極性が必要であるから、財産にそれらを溶かされてしまった藤尾には決して愛は抱けない。たとえ小野以上に風采や肩書きが立派な男が現れたとしても藤尾は愛を抱かないだろう。愛よりも下らない趣味性にうつつを抜かす事に意義を認めている。だから藤尾は嫁に行かれないんじゃない、自ら行かないのである。
   家に附帯したブルジョワ的精神に束縛された藤尾にとって嫁に行って家から分離する事ーーブルジョワ的精神を放棄する事ーーは精神の自殺を意味する。ブルジョワ的精神を嫌う甲野が家を継いだらーーブルジョワ的精神に染まったらーー精神の自殺になってしまうのと同じである。



【「藤尾さんとあの時計はとうてい離せないか。ハハハハなに構わない、それでも貰おう」
   甲野さんは、だまって宗近君の眉の間を、長い事見ていた。】


   「藤尾と時計は離せない」、つまり、「藤尾というブルジョワ階級に精神を規定された人間から、時計に代表される装飾的・趣味的生活を取り上げる事はできない」。だから時計を貰いたければ藤尾も一緒に貰うしかない。藤尾と結婚する事は藤尾の所属する不毛なブルジョワ世界に同化する事を意味する。だから甲野は宗近が「藤尾と結婚したがるほど軽薄な男だったのか?」と思い、不審に思っている。しかし宗近は「藤尾と時計は離せない」の意味を文字通り現象的に解釈しており(藤尾は単純に藤尾という個性であり、時計も単純に時計という物体にすぎない、と考えている)、「藤尾さんから時計を離せなくても強引に時計だけ貰っちまおう」と考えている。甲野は宗近と違い藤尾や時計という現象を現象としてそのまま捉えるのではなく現象の背後に存在する社会的法則を見ている。宗近は単純に現象を現象として見ている。二人の懸隔は大きい。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

夏目漱石『虞美人草』感想

「つまり、家を藤尾にくれてしまえばそれで済むんだからね」
「それで君はどうするんだい」
「僕は立ん坊さ」
「いよいよ本当の立ん坊か」
「うん、どうせ家を襲いだって立ん坊、襲がなくったって立ん坊なんだからいっこう構わない」
「しかしそりゃ、いかん。第一叔母さんが困るだろう」
「母がか」
甲野さんは妙な顔をして宗近君を見た。

-----------------------------------

   上流階級から高度に分離した甲野のような人間は家を継いだとしても上流階級の人間として生きていく事はできない。苦悩ばかりが増していく。それならば家を藤尾に譲って家を出たほうがいい。そうして何物にも捉われない自由な環境下で新しい思想なり精神なりを創造すれば良い。そのほうが幸福になれる。『野分』の道也と違い、甲野が母を養っている訳ではないから、家を出るのは容易である。どう考えて家を出たほうが良い。
   しかし宗近はそういう事を理解できず【叔母さんが困るだろう】と人情の問題を持ち出している。精神・思想の創造という偉大な仕事に人情の問題を対置するほど愚かな事はない。だから甲野は妙な顔をしている。実践的主体である宗近には精神や思想の創造という甲野の課題を理解できない。


---------------------------------


《宗近の言は継母に対するわが心の底を見んための鎌か》
《宗近の言は真率なる彼の、裏表の見界なく、母の口占を一図にそれと信じたる反響か》
《よもや、母から頼まれて、曇る胸の、われにさえ恐ろしき淵の底に、詮索の錘を投げ込むような卑劣な振舞はしまい。けれども、正直な者ほど人には使われやすい。…》


--------------------------------


   宗近が甲野を理解できないように、甲野も宗近を理解できない。甲野と宗近はそれぞれの立場でそれぞれに力量を蓄積しており、相互理解が困難なほどにそれぞれの深化を遂げている。相互理解は困難だが、金力・権力とそれに付帯した俗物精神を退治するという共通の方向性において相互に深く信頼し合っている。それぞれがそれぞれの力量を蓄積し相互理解が困難になればなるほど相互の信頼は深くなっていく。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

夏目漱石『虞美人草』感想

「まあ立ん坊だね」と甲野さんは淋し気に笑った。勢込んで喋舌って来た宗近君は急に真面目になる。甲野さんのこの笑い顔を見ると宗近君はきっと真面目にならなければならぬ。幾多の顔の、幾多の表情のうちで、あるものは必ず人の肺腑に入る。面上の筋肉が我勝ちに躍るためではない。頭上の毛髪が一筋ごとに稲妻を起すためでもない。涙管の関が切れて滂沱の観を添うるがためでもない。いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして床を斬るようなものである。浅いから動くのである。本郷座の芝居である。甲野さんの笑ったのは舞台で笑ったのではない。
 毛筋ほどな細い管を通して、捕えがたい情けの波が、心の底から辛うじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来に転がっている表情とは違う。首を出して、浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、捕まえた人が勝ちである。捕まえ損なえば生涯甲野さんを知る事は出来ぬ。
   甲野さんの笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やかである。そのおとなしいうちに、その速かなるうちに、その消えて行くうちに、甲野さんの一生は明かに描き出されている。この瞬間の意義を、そうかと合点するものは甲野君の知己である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。斬った張ったの境に甲野さんを置いて、始めて甲野さんの性格を描き出すのは野暮な小説である。二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない。
 春の旅は長閑である。京の宿は静かである。二人は無事である。ふざけている。その間に宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る。これが世の中である。


------------------


   甲野は能動的にもなれず、かといって哲学的に思索すればするほど謎は増して行く。甲野は何も出来ない。高度に哲学を突き詰めた結果の「何も出来ない」という高度の境地である。一見すると消極的だが、内実は多大な情熱や能動性を含んでいる。
   甲野のこの現象的には静かだが本当は荒々しい情熱は、現実に寄り添い、現実を極めた結果、獲得できた情熱である。霞に酔った文学者の三文小説のような芝居っ気たっぷりの作り物の情熱ではない。取って付けたようような感傷でもない。【いたずらに劇烈なるは、壮士が事もなきに剣を舞わして床を斬るようなものである】。大げさなアクションを持った非現実的な思索は情熱を持てない。現実に即した現実的な静かな思索のみが深みを持つのである。現象的な思索のみが甲野のような現象的には浅く、内実は深い情熱が持てるのである。【浅いから動く】のである。
   現実を知り尽くし現実が謎ばかりであるのを知った結果、甲野は現実への興味を失い、【笑は薄く、柔らかに、むしろ冷やか】になって、【浮世だなと気がつけばすぐ奥の院へ引き返】すようになった。人は現実への深い認識を持つと現実との直接的な関わりを持たなくなる。現実からの分離が始まる。『野分』の道也の内部でも高度な分離が始まっていたが、甲野の内部では更に高度な分離が醸成されている。
   【斬った張ったの境に甲野さんを置いて、ははあ、こんな人かと合点するようでは親子といえどもいまだしである。兄弟といえども他人である。】『虞美人草』を斬った張った、惚れた腫れたの、激しい人情劇を売りにした三文小説として読む場合、甲野の理解はできなくなる。甲野の精神はどのような日本におけるどのような芸術的な文学作品よりも高度で哲学的な精神である。『虞美人草』はドロドロした恋愛や勧善懲悪を描いた作品として解釈されているが、実際は現象との接触という難しい課題を描いた哲学的な小説である。「恋愛劇」とか「勧善懲悪」という解釈は霞に酔って非現実的な「斬った張った」「惚れた腫れた」ばかりを考えている幼稚な文壇の三文文士たちの偏見である。
   【二十世紀に斬った張ったがむやみに出て来るものではない】現実は、霞に酔った文学者たちのような、非現実的な妄想で彩られてはいない。【春の旅は長閑である。京の宿は静かである。二人は無事である】現実は静かである。そしてその静かな現実の間に【宗近君は甲野さんを知り、甲野さんは宗近君を知る】という風に大げさな言動ではなく自然に静かに理解し合うのが本当の思索である。【これが世の中である。】「斬った張った」「惚れた腫れた」などの酔いどれ文学者の妄想の出る幕はない。現実はあくまでも静かで尋常であり、本当に力量のある甲野のような人間はその尋常な現実を受け入れ尋常な現実の間に尋常な思索にふける。藤尾の生きる鳥籠の世界は真逆で、そこには異常な狂った妄想があるだけである。甲野の世界に生きるか、藤尾の世界に生きるかが、作家として成長できるかどうかの重要な分岐点である。 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
にほんブログ村にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へ
にほんブログ村

テーマ : 夏目漱石
ジャンル : 小説・文学

プロフィール
ブログタイトルは夏目漱石の「黙々として牛の如くせよ」から。

野間

Author:野間

最新記事
最新コメント
カテゴリ
リンク
FC2カウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
検索フォーム
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

Amazon.co.jpアソシエイト
フリーエリア
読書記録
野間の今読んでる本
管理人の電子書籍
お小遣い稼ぎ
日めくり・ねこ時計
ネコ図鑑
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる